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美しき放蕩貴族の悩ましき純愛

泉野ジュール

第1章「君を探していたんだ」 (3)

 アマリアの心臓が跳ねた。もしかしたら、心そのものが飛び上がったのではないかと思うくらい、大きな衝撃だった。

「ちょうどよかった。君を探していたんだ」

 と、彼はアマリアに向けて言った。その伊達男ぶりから想像していたのよりずっと、深く低い声だった。

「……え」

 彼のようなひとに声をかけられて、アマリアは驚き、真っ赤になった。

 なぜ? なぜ彼がわたしに声をかけるの? ……探していた?

 アマリアだけでなく、彼と一緒のグループの洒落者しゃれものたちや、たまたま近くにいた者たちまでもが「おや」というふうに振り返る。アマリアは突如、地味なデビュタントから舞踏会の注目株に格上げされていた。

 なにが起きるのだろうと、周囲が好奇のあまり息を呑む。

 アマリアはますます顔を赤くして、もじもじしながら彼の次の言葉を待った。

 そして運命の瞬間がやってきた。

「これを頼むよ。それとあともう一杯、なにか持ってきてくれ」

 彼は貴族然とした優雅にして放漫な仕草で、アマリアにカラになったグラスを手渡した。

 沈黙。

 沈黙。

 そしてまた、沈黙。

 アマリアが卒倒しそうになった瞬間、周囲から空気の割れるような爆笑が湧き上がった。彼はアマリアを使用人と見間違えたのだ!

 ──まあ、確かに控えめな格好をされていますものね。ははは、ランフェルドのような男がこんな小娘に声をかけるなんて、おかしいと思ったんだ。ねえ見て、あの子、真っ赤になっちゃって。きっと子爵に気に入られて声をかけられたと勘違いしたんだわ……。

 そんなささやきがあちこちから聞こえ、アマリアの胸に残忍に突き刺さった。

 きっと自分の顔は真っ赤を通り越して真っ青になっている。でもそんなことを確認する余裕はなかった。

 肝心の美男は、一瞬、なにが起こったかわからないような顔をしていた。

 そう……きっと彼のようなひとにはわからない。周りより地味なドレスで社交界デビューする気まずさも、嘲笑のネタにされる屈辱も、舞踏会で使用人に間違えられる恥ずかしさも。全部。絶対にわからないだろう!

 アマリアは自分に残された力を振り絞って、その場から駆け出した。

 こんなのは耐えられない。目尻にたまる涙を必死に押さえながら、アマリアは当初目指していたベランダへ向かった。ひとりになりたい。帰りたい!

 小さな隙間が空いていた両開きのそうを、勢いよく押し開ける。びゅうと頰に夜風が当たり、アマリアは身を縮めた。しかし肌寒さより、ひとりになりたい気持ちの方がまさって、そのまま夜会用の靴が許す限りの早足で外へ出た。

 ありがたいことに、ベランダは無人だった。

 石造りの床とせっこうでできた古代風の手すりがあって、大きな壺に植えられた観葉植物が並び内部からの視界を遮っている。ひと泣きするにはおあつらえ向きの場所だった。

 アマリアは手すりまで駆け寄ると、そこにしゃがみ込んで両手で顔をおおった。

「ふぇ……ふええ……っ」

 抑えようとしても、赤ん坊のような泣き声があわれに響いた。

 はじめての舞踏会で、張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れたようだった。あの男性に見惚れていたことを深く後悔した。アマリアなりに頑張って社交界デビューの準備をしてきたのに。両親にいたっては、先祖代々受け継がれてきた肖像画を売ってまでアマリアのドレスをあつらえてくれたのに。

 それを、あの伊達男はめちゃくちゃにしてくれた。

 明日の新聞の社交欄には、この舞踏会の華やかさをたたえる記事が書かれるだろう。そこにはきっと、社交界一の美男子が、ミス・アマリア・ハートランドを使用人と間違えるハプニングがあったものの……という一文が加えられるはずだ。

 アマリアはなかば自棄やけになって、周囲に誰もいないのをいいことに、思う存分自己じこ憐憫れんびんの涙にひたった。最悪の社交界デビューだ……。

 どのくらい時間がったのかわからない。

 気がつくと背後にひとの気配を感じた。アマリアは思わず、涙を拭かないまま後ろを振り向いた。

「あなたは……」

 そこから先の言葉が出てこなかった。

 当然だ。アマリアは彼の名前を知らないのだから。アマリアを使用人と勘違いしてグラスを渡してきた美丈夫が、窓扉から出てきて、こちらに近づいてくるところだった。

 しゃがんだままの不恰好な体勢で、アマリアは固まる。

 歩くという……なんとも単調な動作が、この男性にかかると恐ろしく色めいたことであるかのように思えた。洗練と野生の混じった動き。

 距離が縮まるごとに、アマリアの鼓動は速まった。

 あと二歩ほどで触れ合えるくらいの距離になると、彼はそっと足を止めた。そして「ここにいたんだな」と、例の深く低い声でささやくように言う。

「君を探していたんだ」

 彼はつけ加えるようにそう続けた。

 アマリアを使用人と間違えた時に言ったのと同じ台詞せりふだ。思わずカッとなり、アマリアは立ち上がって半回転すると、彼に挑戦するように対峙した。

「ええ、もちろんそうでしょう! またカラになったグラスがあるのね? どうぞわたしに渡してください。新しいお酒を持ってまいります。そうしてベロベロに酔っ払って、みっともない太鼓腹になってしまえばいいのよ!」

 早口でまくし立てると、胸のすく爽快感と、明らかに身分が上の男性に楯突いてしまったことへの後悔が同時に押し寄せてきた。彼のような男性ならきっと、アマリアなど簡単に社交界から追放できてしまう。

 両手を握って強がるように突っ立ったまま、アマリアは恐怖に震えた。

 叱責しっせきを覚悟した。

 もしくは嘲笑を。

 しかし、彼は小さくため息をついただけで、落ち着いた口調を崩さなかった。

「……あの無作法な間違いについて、謝らせて欲しい。わたしは軽く酔っていたし、父が勝手にわたしにつけた使用人は新人で、顔もよく覚えていなかった。髪の色が同じだったから、つい彼女だと思ってしまったんだ」

 驚いて、アマリアは同じ姿勢のまま動けなくなった。

 まさかこんなにあっさり謝罪されるとは思っていなかったから、怒りの矛先がふにゃりと曲がってしまい、覇気を失う。男性とは──特に身分が高ければ高いほど──己の間違いを簡単に認めたりしないものだ。少なくともアマリアはそう教わったし、実際そういう場面を何度も見てきた。

「そ、それについては……」

「君の名前を教えてくれるかな? なにか君の名誉を回復できる方法を考えよう」

 名誉などと呼べるものがアマリアにあったかどうかは疑問だが、彼の提案はありがたかった。しかも名前を聞かれただけなのに、丸裸にされてしまったような心もとない気分になる……。

 そのくらい彼の声には色香があった。

 アマリアは敗北を認め、子猫のように肩を落として名乗った。

「わたしはアマリア・ハートランドです」

「レディ・アマリア?」

「いいえ……ただのミス・アマリア・ハートランドです。父は男爵ですので……」

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