サウスベリィの下で

原田宇陀児

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4.

「本当に、これからもずっと独りで暮らすの?」

 久しぶりに僕らは、姉弟ふたりきりの午後を過ごすことができた。

 午後といっても、この薄暗い建物の裏庭だ。午後の茶会の優雅さなど望めもしない。キッチンで古くなった錫蘭茶も黴臭かった。まして間もなく陰惨な殺人が行われるという時刻だ。

 僕らには光など当たらない。いまのこの点景は修辞として秀逸に過ぎる。

 姉さんは琺瑯のカップを手許あやうく持つ。それは僕が歯磨きに使っているもので、お茶を注ぐような清潔な品じゃない。

「姉さんがそんなものを使うことないんだ」

 僕はといえば、濃緑の美しい小さなマイセンに茶を満たしている。

「組じゃないのね?」

「片方だけでいいんだ」

「ふうん?」

 だけど彼女は軽く鼻を鳴らすだけ。健康的ではないが、彼女は彼女なりに満足を覚えているようだ。

 肩からフッと力を抜くだけで、姉さんの長い髪が風にそよぐ。表通りはきっと好い秋の午後なのだろう。

「これも本当はBOPのはずだけれど、管理していないから味が雑になって――。塵葉より酷いや」

「相変わらず、お茶まで頭で味わうの?」

 姉さんは赤いジャムを紅茶に落とす。


 カロンコロンカロン……。

 回る銀のスプーンは琺瑯を叩いて軽妙に律韻を刻む。さながら錫蘭国の民族音楽だ。

「……職業病かな」

 お茶を飲んでいるのに、やけに口が渇いている。

「夢ばかりみているから」

「職業病だってば」

 僕は譲らない。

「書くときに調べたことが、時々、頭に染みついて離れなくなって。僕は、ものを憶えるのも忘れるのも苦手なんだ。だからいつも、こんな感じで――」

 そしてここでやめた。バカみたいだ。たかだか古い茶葉で、本当にくだらない。

「忘れるってとても幸せなことなのに、可哀想ね」

 姉さんは苦笑する。

「茶器も1組。銀器も1式。プレートもグラスも何もかもひとりぶん。自分のぶんだけ」

「いいんだよ、僕は」

 これまで多くの相手に唱えてきた進化のないフレーズを繰り返す。

「大通りに足並みを揃えて書いていれば、誰もここまで来ないから。僕は物語を書く。それを、誰か知らない人たちが読んでくれたらそれでいい。読み捨てられる作家でいい。いっそ、そっちがいい。名作なんか書いて他人の記憶に残りでもしたら――。死にたくなるよね、きっと」

「立派に賞なんか受けたくせに?」

「あの頃はまだ耐えられたんだ」

 目をよそへ向けて、僕は答える。

 以前は、学校では恥を恥とも思わない――もう名前も思い出せない――湿った甲殻類のような女のほうからすすんでスポットライトを浴びてくれた。だが、いまは、僕は独りだ。避雷針は、もう無い。

「そういえば」

 姉さんも同じことを思い出したようだ。

「あなたを文壇に送り出したって大威張りだった子。あの子も、もういないのね。あなたが物語を書く姿を楽しく見ていられる人間って、もう、私だけなのかな?」

「楽しんでいたんだ?」

 僕は型どおりの苦笑で応える。

「あまり熱心な生き方とは言えなかったよ」

「あなたにしては、ずいぶん頑張ったんじゃないの?」

「そうなのかな」

 クスクスと、こんどは本物の苦笑が洩れた。

 あれほど捜した姉さんと出会えたのに、僕の“避雷針”消失も話に上ったのに、すぐに昔と同じ空気に戻ってしまうことも含めて、可笑しかった。

 そうだ。あの慎みない女ももう、この世にはいないのだ。

 ある種の予感があった。


 僕は幾度も首を横に振る。こんな蒙りでない、どこかよその、陽が当たりそして宵闇の訪れる街でふたりきりで暮らそうと申し出る姉さんに。

「陽翳の蒙りに新しい黄金が眠っていた時代は、私たちが生まれるより前に終わったの。ずっと昔に」

「関係ないよ。先駆者になりたいわけじゃないんだ。食べるに困らなければそれでいい」

 すると姉さんは、実際に放蕩者を身内に持つ者特有の憂い顔になる。

「それが、あなたが、み続ける夢よ。夢ばかりみていると、頭が壊れてゆくわよ」

「夢? 僕の?」

「夢は、未成熟な睡眠の産物なの。眠りと覚醒との境界が曖昧な域内で脳が仕事をすると、人は自分の記憶を順番の間違った映像として見る――それが、“夢”」

「知っているよ」

「いくら身体が眠んでいても脳は休憩しない。それは酷使して無意味に疲れさせて、脳細胞を殺しているだけ。だから夢をみてばかりの子は、老いが早いの」

「………………」

「身体の中の活性独立不対電子は、眠らせてもらえない脳細胞が大好物なの。人間の頭にコッソリ忍びこんで、脳を赤いベタベタで――」

 そこで姉さんは手に持ったスプーンを壜の中に突き立てて、ゆっくりと円を描いてかき回す。

「ジャムなんかよりももっと赤くてベタベタしたものが脳を包んじゃう。脳細胞は次々に窒息死よ。そんな赤いベタベタに殺された死骸なんて、ただの灰色のドロドロ。牛脂ほどの役にも立たない、惨めなばかりのかたまり」

 姉さんは僕に向かってニッと笑った。

「これが、夢ばかりみていると頭が壊れてしまうというお話」

 僕を笑ってはいるが、同時に、誰を嘲笑っているんだろう?

「いつまでも夢をみ続ける人間は浪漫的な心象があるけれど、概ねは逆ね。普通の人より老化が早い、真っ先に人生を犠牲に差し出す類いの人種だから」

 そして姉さんは見せつけるようにたっぷりジャムを頬ばる。唇の端を赤く染めて、まるで元気いっぱいの女の子。

「とても美味しくできているわ」

「そう?」

「ふふふっ。夢をみ続けた天才――育ちすぎた子供は皆、頭の中にこんな赤いベタベタを詰めこんで死んでいったのね」

「考えたくないな」

「うふふふっ」

 壜のジャムを弄って彼女は、冷酷な翳りを隠さないまま。

「こんなに上手にジャムを作れると知ったら、父さんたち、喜ぶわ」

「どうかな……」

 僕は天井を見上げる。枠組みを基調とするロマネスク式の壁面を、唐突にエスニカルに展開させる節操のなさが、いまはいっそ潔い。

「父さんのことは、もう――」

「忘れたい?」

「悪い姉弟よね。同じ“悪い”でも、悪いことなんて何も知らないみたいに見せるのが、いちばん悪いことだと、私、思うの」

 僕は必死に自分を抑える。ソワソワと、空いたカップを弄ぶ。過去の様々な出来事が胸中に甦る。

「懐かしい――。あなた、憶えているわよね? あのときのこと?」

 あのとき。

 僕が初めて姉さんに唇を奪われたのも、そう、あんなサウスベリィの樹の下でだった。

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