ぼくには孤独に死ぬ権利がある――世界の果ての咎人の星
B_001「死体置場への宇宙船」(5)
眼鏡越しに朝の陽射しを確認した翌朝の香名子は、事後の気恥ずかしさをわずかに覚えつつ、ベッドから這い出した。
「おはようございますっ! 香名子さん!」
「……帰らなかったんですか?」
台所へ向かうと、待ち構えていたようにハヤタが答えたので、わざと吐き捨てるように訊いた。
「はい。昨晩の状況を考えると、経過観察……いえ、いろいろと心配でしたし……」
「心配性、なんですね?」
困ったようなハヤタの表情を上目遣いで見上げ、少しだけ笑った。
「え、えーと……任務ですから。それに、洗い物や掃除をしていたら、朝になってしまいました……」
まったく家事をしていなかったことに良心の呵責はなかったが、祖母以外の他人に指摘されるのは恥ずかしいことだった。
「あ、熱は下がったようですね」
綺麗に片付けられた室内を憂鬱そうに眺めていると、額にハヤタの手が触れた。
(やっぱり、冷たい手……でも、気持ちいい……)
それでも——呟くことはなく、表向きは無表情のままで。
「よかった。じゃ、急いでごはん作りますね」
「あの……あなた、寝ていないんじゃないですか?」
「はい。でも、ぼくの身体は睡眠を必要としませんので」
10分後——素朴ながらも手の込んだ和食が食卓に並んでいた。
特に、何処で買ってきたのか──宗太鰹の削り節と黒口の真昆布を合わせて、丁寧に味噌汁の出汁を取っていたことに驚いた。
(なるほど、徹夜になるはず……ですね……)
しかし、労いの言葉は思いつかなかったので、黙々と食べた。
慎重に箸を運んだのは、いつもの癖だった。祖母はおかずを食べる順番まで厳しく指図していた。それでいて、スーパーの投げ売りで購入したのか──消費期限を大幅に過ぎている食品も混じっていた。
香名子がお腹を壊しても、逆に『信心が足りないから、罰が当たったんだッ!』と罵られるだけで、自身の行いを反省することはなかった。
戦中派で貧困層出身の祖母はどれほど粗悪なものを食べようが、絶対に腹を壊さないからだ。
少しばかりの腐敗に負けるほど、あたしは弱くないのだ——と言わんばかりに。
(戦後日本の貧困とやらを生き抜いてきたから? タマシイが〈宗教性人格障害〉で腐り果てているから?)
閑話休題——対面に座ったハヤタは黙って日本茶を啜っていた。
「ハヤタさん……で、良かったですか?」
「ハヤタ、でいいですよ」
少し怒った感じで訊くと、ハヤタはにっこりと笑って答えた。
「えーと……いくら家政婦とはいえ、勝手に部屋に入って、思春期の女の子を裸にするなんて、警察に突き出されても文句言えないと思いますよ?」
ふくれっ面は少し赤くなっていたが、口調はあくまで冷静を装っている……はずであった。
人見知りの性分を隠して、上手く演じている……そう信じていた。
「そ、それは……ごめんなさい。でも、香名子さんの身の回りをお世話するのが、ぼくの任務ですから……」
「ふーん……だとしたら、〈わたし〉の言うことは、すべて聞いてくれる……ということ、ですか?」
困りながらも反論するハヤタの腹の内を探るように、香名子は追い打ちをかけていく。
本気ではないから、論理が飛躍していても構わないと思っていたが、ほんの少しだけ、仄暗い感情が揺らいでいた。
この青年の朴訥さが狡猾な演技なのか、本当に間が抜けているのか、判断しかねていた。
此処までの会話から考えると、年齢相応に知能は高いはずだが、何処か足りないようにも思えた。
(……男のくせに家政婦をしているのも、そのあたりに理由があるのでしょうか?)
(……そして、〈わたし〉は……何を期待しているのでしょうか?)
テーブルの上に置かれていた家政婦の就業契約書に目を通しつつ、香名子は自己嫌悪を抱いていたが、ハヤタは笑顔で「はい」と答えた。
次の瞬間——香名子は就業契約書の文言を〈下僕契約書〉に書き換え、ハヤタへ突き付けていた。
「だ、だったら……〈わたし〉の下僕になってくれます……か?」
「はい。了解いたしました」
即答──まるで、あらかじめ予定されていたかのように、ハヤタは〈下僕契約書〉を受け取っていた。
「……す、素直なんですね?」
「別に、殺人とかは命じませんよね?」
「は、はァ? なんですか……それ?」
「はい。〈情緒回復計画〉の都合上、殺人だけはちょっと難しいんです」
「そ、そんなこと、命じるわけがないですっ!」
柔らかく微笑んでいる青年の奇妙な言動に、香名子は唖然としていた。
(家政婦は殺し屋ではないですから、家政婦に殺人を命じる者はいません。ましてや、殺人を命じる理由もない……はずです)
日常と非日常——家政婦と殺し屋は、本来なら、まったく対極の職業だ。
「了解しました。それ以外は、まったく問題ないです。それで、香名子さんが大丈夫になれるんだったら、ぼくは嬉しいです」
ハヤタはそう言うと、判読しづらい象形文字のようなサインを記した〈下僕契約書〉を差し戻した。
機械的に翻訳したような文面には、就業契約書とは思えないような言い回しも目立っていたが、香名子はさっさと祖母の仏壇から持ち出した認印を捺した。
『すごくあったかくて、安心する臭いがします──』
自分の価値を発見されないことには慣れていた。だから、諦めていたはずなのに、下腹部——傷痕の奥に熱い塊のようなものを感じていた。
いや、単に恥ずかしかったのだ。赤面していることも分かっていた。
「それじゃ、今日からよろしくお願いします!」
「こ、こちらこそ……」
1990年の春──初夏に近い頃、ひとりぼっちの永田香名子の前に現れたのは、不思議な「家政夫」だった。
ハヤタと名乗った彼は、香名子の下僕となることも了解したが——彼女は後年、このことを振り返っては首を傾げていた。
平々凡々とした女子中学生が、どうしてそんな不穏なことを思いついたのか、と。