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ワケあって本日より、住み込みで花嫁修行することになりました

田崎くるみ

婚約者、現れました (2)

 いつもの時間に出勤し、午前の業務が始まって一時間。昨日仕上げた請求書の最終チェックをしてから、指導係であるあやさんに提出したのだけど……。ふたつ上の先輩、綾瀬さんがせっかくにこやかに話しかけてくれているのに、返事をするだけでいっぱいいっぱい。

「えっと……じゃあ次は、これお願いね」

 次の仕事を受け取り、頭を下げて自分の席に早歩きで戻る。けれど椅子に腰掛けた瞬間、後悔の波に襲われる。

 綾瀬さんは気さくな人で、配属当時から指導係として仕事以外のことでも、何かと声をかけてくれている。

 きっと、私が早くめるように気遣ってくれているんだと思う。それなのに私は、いつもまともに目を見て話すことができない。

 もういい加減、トラウマを断ち切るべきだって充分わかっている。けれど幼い頃の記憶は鮮明に残っていて、『また同じ思いをしたら……?』って考えると、怖くてうまく話せなくなる。ずっとその繰り返しだ。

 仮採用期間の三ヵ月を過ぎ、やっと正規雇用されたんだから、『社会人として一歩踏み出すべき!』って毎日意気込んではいるけれど、そう簡単にできるわけがない。

 だから、せめて仕事だけはしっかりやりたい。その思いで毎日業務に当たっていた。


 昼休みに入ると、先輩たちはそれぞれ同じビル内の飲食店へ繰り出す。

 私はというと、朝に自分で作ったお弁当を、オフィスでひとり寂しく食べ終えた。

 顔の前で小さく手を合わせ、お弁当箱を片づけていく。

 昼食を持参してくるのは、私と五十歳になる部長だけ。

 部長は物静かな人で、昼休み中も新聞を読みながら食べているから、ふたりっきりでも話す必要がなくて助かっている。

 時計を見ると、昼休みも残り半分。この時間ならトイレはいつもいているから、さっさと行っちゃおう。

 入社したての頃、昼休みギリギリにトイレに行ったら、そこは先輩たちのいこいの場と化していた。

 洗面台の前で化粧直しをしながら、井戸端会議を繰り広げていて、洗面台を使うのにちゅうちょした。

 だから、今は先輩たちが利用していない時間を見計らって、行くようにしている。

 オフィスを出てひとの少ない廊下を歩いていると、ひと際目を引く人物を視界が捕らえる。

 コツン、コツンと革靴を鳴らし、りんと背筋を伸ばしてまっすぐ向かってくる人物。

 すれ違う社員は、皆頭を下げる。それもそのはず、彼は社長のひとり息子であり、二十八歳にして我が社の専務でもあるのだから。

 身長百八十センチ。スラッと伸びた手足に広い肩幅、パリッと仕立てのよいスーツを着こなしている。黒の短髪をいつもワックスでセットしていて、いかにも仕事がデキる雰囲気をかもしているのは、氷室けんしん

 海外メーカーの商品を扱うことが多い我が社では、語学が堪能な社員も多い。その中でも、彼は英語にフランス語、ドイツ語、中国語も話せて、巧みな話術で次々と商談をまとめてくる。

 そんな彼は私の幼馴染みで初恋の人でもあり、今でも密かに想いを寄せている相手だったりする。

 相変わらずカッコいい彼に見とれて立ち尽くしていると、私に気づいた謙信くんは顔をほころばせて近づいてきた。

「ちょうどよかった。今、経理課に行こうと思ってたんだ」

 私の目の前で立ち止まると、彼は手にしていた紙袋を私に差し出した。

「これは……?」

 紙袋と謙信くんを交互に見ていると、彼はクスリと笑みをこぼす。

「プレゼントだよ。今日はすみれの誕生日だろ?」

「……覚えていてくれたの?」

「もちろん。毎年渡しているだろ?」

「そうだけど……」

 幼い頃から、誕生日には毎年プレゼントをもらっていたけれど、まさか社会人になってからも、もらえるとは思わなかったから。

「ありがとう」

 嬉しくて笑顔で受け取ると、謙信くんもつられるように笑って「どういたしまして」と言う。

 伸びてきた大きな手が、私の頭をポンとでた。

 それだけで心臓が飛び跳ねる。

「プレゼントは帰ってから見ろよ」

「う、うん」

 トクン、トクンと高鳴る胸のどう。いつもそう、彼に触れられるたびに顔をまともに見られなくなる。

「じゃあな」

 最後にもう一度私の頭に触れると、彼は来た道を戻っていった。

 大きな背中を見つめたまま、受け取った紙袋を持つ手の力が強まる。

 おじいちゃんが自宅で開く華道教室に、いつもお母さんと一緒に訪れていた謙信くんとは、いつの間にか仲良しになっていた。

 同級生とは違い、私の遊びに付き合ってくれて、可愛がってくれる大好きなお兄ちゃん的存在だった。それが恋心に変わったのは、小学五年生の時。

 クラスメイトからいじめられて帰ってきた私を、何も言わずに抱きしめてくれて……私はその胸でワンワン泣いた。

 転校してからも、新しい環境に慣れない私をいつも優しく励まし、支えてくれた。

 そんな謙信くんを好きになるのは、必然だったのかもしれない。人と話すのが苦手な私にとって、普通に話せるのはおじいちゃん以外では謙信くんだけだったから、特別な存在になっていったんだ。

 十一歳の私から見たら、十六歳の謙信くんは大人だった。

 そんな彼に釣り合う女の子になりたくて、大人っぽく振る舞ったり、髪型を変えてみたり。子供ながらに精いっぱい努力していたと思う。

 けれど、私の想いは届くことはなかった。謙信くんにとって、私は妹のような存在だったから。可愛がってくれるのも、心配してくれるのも、優しくしてくれるのも全部そう。それは今も変わらないと思う。

 そのことに気づいたのは、私が小学六年生の時だった。

 謙信くんが同じ学校の制服を着た女の人と、手をつないで楽しそうに話しながら歩く姿を見て、すぐに理解できた。ふたりは付き合っているんだ、って。

 告白もできないまま、初恋は終わったはずだったんだけど、そう簡単に気持ちを消すことはできなかった。

 幼馴染みとして何かと気にかけてくれて、毎年誕生日やクリスマスにはプレゼントを贈ってくれるから。それに食事にも頻繁に誘ってくれるし、家族ぐるみで会うこともしばしば。入社後も社内で会えば、『仕事には慣れたか?』って話しかけてくれる。

 それはすべて、幼馴染みだからこその特権なんだろうな。

 そのたびに嬉しくて幸せな気持ちになれて、『あぁ、やっぱり私は謙信くんのことが好きだ』って思い知らされちゃうんだ。

 この会社に入社を決めたのだって、就職活動が惨敗だったことはもちろんだけど、何より謙信くんが専務を務める会社だったから。

 だけど、今思えば入社するべきではなかったのかもしれない。大学生の頃は、月に一度会えればいいほうだった。でも、今は違う。

 社内ですれ違うことが度々あって、会うたびに優しく声をかけてくれる。

 おかげで好きって気持ちは、ますます膨れ上がるばかり。

 昔から謙信くんはモテていたけれど、それは社会人になっても変わらない。そして、彼女が次々と変わるのも。入社して三ヵ月、秘書課の子と付き合っているとか、別れたとか。今度は、営業の子と付き合い始めたとか……。

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