お気の毒さま、今日から君は俺の妻

あさぎ千夜春

タカミネコミュニケーションズの魔女 (2)

「おはようございます、副社長」

 彼の名前はあまみやしょうへい。澄花が勤めるタカミネコミュニケーションズの副社長だ。見たところ特に連れはいない。いつもは社員が彼の周りに輪を作るほど人に囲まれているのだが、今日に限っては天宮ひとりで早朝出勤らしい。

「花の持ちがいいと思っていたら、いつもそうやって栫さんが世話をしてくれてたんだね。気が付かなかったよ」

 天宮はわざわざ立ち止まって、くっきりした二重瞼の目を軽く見開いた後、肩を竦める。

 長身で甘い顔立ちをした王子様のような天宮がそんな仕草をすると、妙に様になる。いつも英国風の仕立てのいいストライプのスーツを身にまとって、朝の八時になったばかりだというのにとても優雅で、たたずまいからして洗練されている。たとえるなら血統書付きの長毛種の猫だ。隙がない。

 ちなみに天宮は年は三十代半ばで、愛妻家の社長と違い独身ということもあり、社内で絶大な人気を誇っている。結婚したい独身男性社内ナンバーワンなのだが、澄花にとって天宮はそういう対象ではない。

 ただ単に、副社長という重い立場の割には、かなり気さくな人だという程度だ。

「すみません、勝手に」

 とがめられたわけではないとわかっていたが、澄花は真面目に、天宮に向かってさらに頭を下げた。

 澄花は都内の女子大を卒業後、タカミネコミュニケーションズに入社し、それから三年、総務で働いている。

 総務では事務を担当しているが、社内に飾ってある花の手入れをする必要はない。そもそも社内の植物はみな出入りのフラワーショップが管理している。花は古くなったらさっさと捨てられ、新しいものに取り換えられるだけだ。それでも朝早く出勤したついでに世話をしているのは、花が簡単に捨てられることに抵抗があったからだ。

「とんでもない。きれいにしてくれてありがとう。助かるよ。今度お礼でもさせてもらえないかな」

「お礼だなんて。好きでやっていることですから」

 澄花は慌てて首を横に振る。

 だが天宮はそれを受けても特に引く様子はない。

「君はずいぶん控えめなんだね。ますます美味しいものを食べさせたくなってきた」

 と、おどけた表情を浮かべる。

「食べさせたくなってきたって……けですか?」

 天宮のコミカルな口調に澄花はクスッと笑う。

「タカミネコミュニケーションズの歩くミシュランガイドって言われてるからね、俺。期待してて」

 そして天宮はにっこりと、社内で評判の王子様スマイルを浮かべた後、受付を通り過ぎて足早にエレベーターへと向かっていった。

「お疲れ様です」

 澄花は天宮の背中に向かって、軽く頭を下げた。

 お礼うんぬんは実際、よく社内の人間が集められて食事に連れていってもらっていることからありえる話だ。けれど彼は社内でも一、二を争うモテ男なので、おいそれと食事に行けば、余計なもめごとに巻き込まれそうでもある。

(それにしても、花の持ちがいいってこと気が付いてたって、さすが副社長……なんでもよく見てるのね)

 澄花は感心しながら、天宮を見送った。

 タカミネコミュニケーションズ本社フロアはシブヤデジタルビルの十五階から二十階にある。インターネットの広告事業からSNSサイトの構築、ソーシャルゲームやアプリの開発など、インターネット事業を主にする企業である。売上高は一千億円を超え、純利益は年間五十億円だ。

 社長のたかみねまさともはIT界の帝王と呼ばれ、副社長の天宮と一緒にこの会社を立ち上げた。創業者が三十代なので、基本的に会社の従業員も若手が主になる。

「せんぱーい~!」

 背後から鈴を転がすような声がして、振り返ると子犬のような女性が走って近づいてきた。

「おはよう、タマちゃん」

「おはようございますっ!」

 彼女は焦ったように挨拶をした後、澄花の腕を掴んで、ロビーの柱の影へと引きずり込んだ。ちらほらと出勤し始めている社員たちの目が気になるのか、声は抑えつつも真剣な目で澄花を見上げる。

「あ、あ、ああのっ、い、い、いまっ、天宮さんとおしゃべりされていませんでしたかっ……!」

 彼女は名前をはまたまといい、昨年入社した新人だ。天宮の大ファンである彼女は、憧れの天宮と、総務部の先輩である澄花が話をしているのを見て大興奮したらしい。まん丸でぱっちりした大きな目をウルウルと輝かせながら、澄花を見つめている。

 少しでも背が高く見えるようにと、頭のてっぺんでくせ毛をいつもお団子にまとめている彼女に、女の子らしい白いニットワンピースはよく似合っているが、そのお尻から、ふさふさと揺れる尻尾しっぽが見えるようで、澄花は自然と笑顔になった。

「どうなんですか、先輩っ!」

 そんな澄花を見て珠美は焦れたように言いつのる。

「どうって……別にたいしたことないよ」

 朝でも元気いっぱいだ。微笑ましく思いながら、澄花は苦笑しうなずいた。

「水切りして、花瓶の水を交換していただけ。それなのに〝いつもありがとう〟って言ってくださって……」

 お礼をしたいと言われたことは珠美には黙っていた方がよさそうだ。

 なので、『天宮さんは気が利くし、いい人よね』と言葉を続けようとしたのだが、

「いやぁぁぁーっ!」

 珠美は叫んで、その場にしゃがみ込んでしまった。

「えっ、どうしたの、タマちゃん?」

 澄花はびっくりして、ボールのように丸くなった後輩の前にしゃがむ。

 すると美珠は大きいまん丸な目をさらに潤ませて、子供みたいに唇を尖らせた。

「羨ましくて死にそうですっ!」

「死にそう……」

 大げさなと思ったが、美珠は本気のようだ。

「当然ですよっ、天宮さんにありがとうって言われるなんて、先輩すごすぎますっ! もしかして寿命が延びるのではっ?」

 そう叫んだかと思ったら、今度はまたピョーンと跳ねるように立ち上がり、雄々しくこぶしを天井に突き上げた。

「私も明日から早起きして、毎朝花瓶のチェックをしようと思いますっ! あっ、いやでもそんなのあざとすぎますよね……。先輩みたいに普段の行いがいいからそうやって天宮さんから褒めてもらえるんであって、狙ってやっても褒めてはいただけないですよねーっ……。はーっ、難しいっ……!」

 珠美の表情が忙しそうにくるくると変わる。

 それを見ていると、澄花の顔はいつも緩んでしまう。妹がいればこんなふうだろうかと微笑ましい気分になる。

(かわいいなぁ……癒される……)

「でも早起きは偉いんじゃない? 三文の徳とも言うし」

「あ、そうですよね~えへへ。今日はたまたまお兄ちゃんにバイクで送ってもらったから早く着いたんですけど、今度から早めに出ようかなぁ~。天宮さんに会えるかもしれないしっ……あっ、そうだっ! 先輩、まだ早いですし、お茶淹れてお菓子食べませんか? お兄ちゃんが作ったビスキュイですっ。すっごく美味しいんですよ~!」

 気が付けば話が脱線していたが、これも珠美の通常運転だ。そして澄花は自分とはまったく違う、てんしんらんまんを絵に描いたような珠美と一緒に過ごす時間が嫌いではない。

「そうね。お茶を飲む時間くらいはあると思う。お兄さんのお菓子も嬉しいな」

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