ホテル御曹司が甘くてイジワルです

きたみまゆ

ホテル御曹司が甘くてイジワルです/プロローグ / 穏やかな日常と気になるあの人 (1)




ホテル御曹司が甘くてイジワルです


プロローグ


 その日、俺が小さなドームの中で星空を見上げたのは、ただの気まぐれだった。


 新しい事業の視察のためにやって来た港町。目的の古い商館やその周辺を念入りにリサーチしているうちに、海からの冷たい風ですっかり体が冷え切ってしまった。

 白い息を吐きながら商館の前にある大きな庭に立つと、隣に建つ古い石造りの倉庫の明かりが灯っているのに気がついた。

 入口に吊り下げられたレトロなしんちゅうの看板には『さかうえてんきゅうかん』と書かれている。

 天球館……。プラネタリウムか。

 倉庫の横にあるドームを見上げて納得する。

「副社長、入ってみましょうか」

 秘書のとおやまの言葉にうなずいて入口へと進む。

 ぽつりぽつりと座席が埋まったとうえいしつの一番後ろの座席に腰を下ろすと、綺麗な黒髪をひとつにまとめた女性が入ってきて投影機のそうたく、コンソールへと上がった。

 すっと背筋を伸ばした姿勢。真っ直ぐに前を見つめる横顔。

 りんとした印象の彼女がマイクの前で話しはじめる。

 投影中の注意事項のアナウンスが流れるとともに、ゆっくりと照明が落とされてドーム内が暗闇に包まれると、頭上に満天の星が現れた。

「皆様に今見ていただいているのは、本日二十一時頃の星空になります。この季節、冬は一年の中でもっとも星空が綺麗に見えます」

 こうやってゆっくりとプラネタリウムを眺めるのは、一体何年ぶりだろう。

 そう思いながら座席に沈み込み、ぼんやりと空を見上げる。

「青白い星が集まっているのが、すばると呼ばれるせいだんです。せいしょうごんも『まくらのそう』の中で『星はすばる』と残したほど、昔から私たち日本人にはなじみ深く、多くの人に愛されている星です」

 その話を聞きながらちらりと左横にあるコンソールをると、マイクの前の彼女は星を指し示すためのポインターを持ちながら、生き生きとした表情で星座の解説をしていた。

 よっぽど星が好きなんだろうな。

 彼女の表情が、星々よりもずっときらめいて見えて、強く印象に残った。


穏やかな日常と気になるあの人


「本日は、坂の上天球館へお越しいただき、誠にありがとうございます」

 すぅ、と息を吐き出してから話し出し、手元のスイッチを操作してドーム内の照明を落としていく。

 あしもととうゆうどうとうと順々に明かりを消し、向かって右側、西の空に太陽を浮かび上がらせる。

「皆様が見ている正面が南。そして、丸い太陽が見えている右手が西になります。初夏のこの時期の日没は遅く、午後七時近くなってようやく西の地平線に太陽が沈んでゆきます」

 プロジェクターで映した街並みに、うすだいだいいろの太陽がゆっくりと没していく。

「短い夏の夜ですが、星座はとても賑やかです。夜空に淡くインクをこぼしたような白い帯があまがわ。天の川は一年中見ることができますが、夏から秋にかけていっそう濃く、美しく輝きます」

 ドーム型の天井に、投影機で夏の星座を映し出す。

 私は解説をしながら客席を見渡した。

 南に向かっておうぎがたに配置された座席。

 ドームの後方にあるコンソールから見ると、どの席の背もたれが倒れているか、ひと目でわかる。

 曲線を描く座席の中で、ぽつんぽつんと虫食いのように欠けて見えるのが、お客様が座っている場所だ。

 平日の昼間とはいえ、この客数は少し寂しい。

 空席の多いドーム内を見渡した私は、星座解説を続けながら心の中で小さくため息をついた。


 東京から新幹線で三時間弱の距離にある地方都市。中心地から少し外れた高台からは、街と港が見下ろせる。

 その港が開港され国際貿易のかなめとなったのは、今から約百五十年前。当時、この土地にはたくさんの外国人が訪れたそうだ。

 一時期は外国の商人たちが居住するために建てられた洋館や商館が並び、まるでヨーロッパの街並みのようだったという。

 いしだたみの坂道やガス灯、大きくて緑豊かな公園などにその頃の面影は残っているけれど、今では洋館の大半が取り壊されてしまい、残る建物はわずかしかない。

 そんな貴重な建物のひとつ、明治時代に建てられた石造りの倉庫を利用しているのが、私、なつの勤める坂の上天球館だ。

 倉庫を改装した事務所部分と、それに隣接して作られた白壁にうすみどりいろの丸い屋根のプラネタリウム室。

 古い港町に溶け込むその建物の入口には、真鍮の看板が取りつけられている。

 プラネタリウム室のドームけいは十メートルで客席は八十席。

 三十年前の開館当時に設置された国内メーカーの投影機は今なお現役で、六とうせいまでのこうせいを映し出す。

 公営のものでも、最新機器を導入したアミューズメント施設でもない、個人が細々と経営する小さな小さなプラネタリウムは、もともとは地元企業の社長の趣味で作られたものだった。

 今から十五年前、彼の亡き後に取り壊されることになったとき、それまで施設の職員として働いていた現オーナーの館長が、社長のご家族にどうしてもと頼み込んで買い取ったのだ。

 そんなちょっとした歴史のあるプラネタリウムだけど、小さな施設だから、職員はふたりしかいない。

 いつも穏やかで優しい館長と、今年で二十八歳になる私。

 休館日の火曜以外は毎日プラネタリウムを上映し、星座解説をする。

 ぽつぽつとやって来るお客様に、ドームの天井に映し出される満天の星を見せ、夢のようなひとときを楽しんでもらうのが仕事だ。

 単調だけど、幼い頃からずっと星が好きだった私にとってはまさに天職で、満ち足りた日々を送っていた。


「東の空が薄っすらと赤らんで、新しい朝がやって来ました。日の出を眺めながら投影を終えたいと思います。本日はありがとうございました」

 そうアナウンスすると、客席のあちこちから夢から覚めたような小さなため息が漏れた。

 まどろむように流れる空気を壊さないように、ドーム内の照明をゆっくりと明るくし、出口を示す誘導灯を点灯する。

 プロジェクターやコンソールの電源をオフにしてから移動し、プラネタリウム室の出口にある分厚いしゃこうカーテンを開ける。

 扉が開くと、お客様がそれぞれに伸びをしたり身支度をしたりして席を離れはじめた。

 観光らしき家族連れ、仲の良さそうな恋人たち、大学生くらいの女の子。

 そんなお客様の中にある人の姿を見つけて、かすかにどうが速くなった。

 ときどきこのプラネタリウムを訪れてくれる、上質そうなスリーピースのスーツを着た背の高い三十代くらいの男の人。

 ドーム内の一番後ろの席にいた彼は、ちょうど座席から立ち上がったところだった。

 ……今日も来てくれたんだ。

 思わず嬉しくなってしまう。

 こんな小さなプラネタリウムに何度も足を運んでくれるなんて、よほど星が好きなんだろうな。

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