副社長と秘密の溺愛オフィス

高田ちさき

事件は突然……やってきた (1)


事件は突然……やってきた


 いくら退職を決意したからと言って、すぐに仕事を放り出せるわけもなく……。

 わたしはいつもどおり――いや残された時間がわずかだと思うと、いつも以上に、きちんと仕事をしていた。

 週末の金曜日、二十二時。繁華街を一台のリムジンが走る。

 そこには懇意にしている取引業者の社長との接待を終えた副社長と、同行していたわたしが乗っていた。

 副社長はリムジンの後部座席でため息をつきながら、少々疲れた様子でネクタイを緩める。

「はぁ……あの社長の話、長すぎると思わないか?」

 確かに、今日はすごく時間がかかった……。いつもなら食事をしても、長くて三時間程度。それなのに今夜は十七時からずっと――既に五時間も経過していた。副社長が疲れたというのも、理解できる。

「あの年代の方には多いですけれど、それも人柄のよさかと」

 一緒になって愚痴を漏らすわけにもいかず、わたしは隣であたりさわりのない返事をした。

 仕事の移動は、多くをこの運転手付きのリムジンを使う。最初こそは緊張したものの三年目となると慣れたものだ。タブレット端末を取り出し、この隙間時間に副社長に来週の予定を伝える。

「月曜の午前中は定例会議が入っております。それまでに午前中の決済必要書類に目を通しておいてください。午後は――」

「ストーップ!」

「え、はい」

 いきなり止められて驚いた。なにか不都合があったのだろうか?

 副社長を見ると、疲弊した様子で革張りのシートに深く座り、ヘッドレストに頭をもたげていた。

「お疲れのところ、申し訳ございませんでした」

 今日は長かった分、疲労も大きいのだろう。気遣いが足りなかった。

「いや、悪い。今日はいつもより疲れてるみたいだ。乾が癒してくれるっていうなら、もうちょっと頑張れそうだけど」

 わずかに目を細めてチラリとこちらを見るその瞳に、一瞬にして心拍数が上がる。おそらく特別な意味などない言葉なのに、意識してしまう自分が恥ずかしい。

「そういう役目は秘書よりも他の女性にお願いしてください」

 女として見ていないはずのわたしに、なぜそんな言葉をかけるの?

「どうして? 俺は秘書に頼んだつもりはない。乾だから、癒してほしいって言ったんだ」

 ふざけているのかと思い、彼の顔を見る。しかしわたしの予想に反して、すごく真剣な顔をしていた。

「……ど、どういうことでしょうか? わたしは――きゃあ!」

「危ないっ!」

 わたしが話をしている最中に体に〝ドンッ〟という強い衝撃が走った。前のめりになったわたしの体を、副社長のたくましい腕が引き寄せて包み込む。

 突然のことにパニックになったわたしは体をこわばらせた。すると、もう一度大きな衝撃が加わる。

 わたしは副社長に抱きしめられたまま、ウィンドウに叩きつけられた。

 な、なにが起こったの?

 体の痛みに耐えながら目を開き、副社長の胸の中で彼の様子をうかがう。

「……っう、い、乾。大丈夫か?」

「はい、えっ?」

 返事をした瞬間、わたしのグレーのスーツにポタリとなにかが落ちた。暗がりの中でよく見ると、真っ赤な血だ。

「ふ、副社長! お!?

「大丈夫だ。大きな声を出すな。頭に響く」

 慌てて顔を上げ確認すると、副社長の額から鮮血が流れ出ていた。

 うそ! どうしよう、どうしたらいいの?

 早く助けを呼ばなくてはならない。しかし、スマートフォンはどこかに転がってしまったのか近くにはない。それより、なによりも全身が痛くてまったく動けそうになかった。

 どうやらわたしたちは、交通事故に遭ってしまったようだ。周りにはガラスが散らばっている。つぶれた車体が目の前に迫り、わたしたちを閉じ込めていた。この悲惨な状態が、事故の激しさを物語っていた。

 運転手のなかさんのことが気になり、目を向けたがピクリとも動かず、うめき声さえ聞こえず、安否の確認ができない。

「誰か……! 誰か助けてください」

 大きな声を出したつもりだったが、実際はか細いものだった。

 事故に気づいた人が、きっと救急車を呼んでくれるはずだ。そうは思っても、不安に押しつぶされそうになる。

 副社長は救助を待つ間も、「大丈夫だ。守ってやるから」と、わたしを安心させようとしてくれる。

 自分のほうが、ひどい怪我なのに。

 しかし、わたしを抱きしめる腕の力が弱くなっている。

 どんどん出血する傷の様子を見て、一刻も早く助けが来てくれるように祈る。その時、母の形見のカメオのブローチが近くに転がっているのが見えた。わたしはそれを拾い、ぎゅっと握りしめ祈る。

 お願い。助けて――!

 周りから聞こえる野次馬らしき人の声に交じり、遠くからサイレンの音が聞こえた。

 ようやくホッとしたわたしは緊張の糸が切れてしまい、そのまま意識を手放してしまった。

 ……痛いっ。

 ズキンズキンと脈打つような激痛が、全身に走る。特に右側の額の辺りの痛みはひどかった。

 そういえば、わたし……事故に遭ったんだった。

 うっすらと目を開けると、見慣れない真っ白な天井が目に入る。何度か瞬きすると、はっきりと周りが見えるようになった。

 首だけを動かして、誰か周りにいないかと確認する。すると、見慣れない六十代くらいの品のいい女性がベッドの脇で座っている姿が目に入った。

 その女性は、目覚めたわたしを見て、ホッとした表情を見せた。

 誰だろう? 事故の相手だろうか?

「よかった! 目が覚めたのね。今、お医者様呼びますから」

 枕元のナースコールのボタンを押して、女性が医師を呼んだ。

 ほどなくして、廊下からパタパタと数人の医療スタッフが病室に入ってくるのが見えた。

「失礼します」

 腕をとり脈の確認をして、その後まぶたをこじ開けられ、ライトで照らされた。

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