副社長と秘密の溺愛オフィス

高田ちさき

副社長とわたし (2)

 わたしは目の前で副社長が問題を解決するさまを、ただ眺めることしかできなかった。

 はたと気がついて、思いっきり頭を下げた。

「も、申し訳ございませんでした」

 ミスをしたうえ、その後始末を上司である副社長にさせてしまった。どんな叱責でも受けるつもりだった。

「真面目を絵に描いたような謝罪だね」

「あの、はい。申し訳――」

 ますます深く頭を下げる。

「あ、別に責めてるわけじゃないから。ほら、いつまでも下向いてないで」

 恐る恐る顔を上げ、息を詰めた。そんなわたしに副社長は諭すように続ける。

「ミスはミスとして反省しなくてはならない。けれど、ここで萎縮してしまってはダメだ。しっかりと次に活かしてほしい。もう少しリラックスして。それに、たまにはミスしてくれないと、上司としてカッコいい姿が見せられないだろ?」

 最後はこちらを気遣うように、肩をすくめてみせた。

 わたしがずっと肩に力を入れているの、わかってたんだ……。

 他の人はおそらく気がついていない。それは、わたしがそう見えるようにしていたからだ。アヒルと同じように、悠々と泳いでいるようで、水面下では必死に足をばたつかせていた。

「まぁ、とにかくあんまり頑張りすぎない程度に頑張って。ほら、行くぞ」

 副社長はわたしの肩をポンとたたいて、出口に向かう。

 しかし、ぼーっとしていたわたしは動けないでいた。

「置いていくぞ」

「え、あっ……すぐに、まいります」

 戸惑ってしまったのは、その時に見た副社長の柔らかい笑顔が、落ち込んだわたしの心の隙間にスッと入り込んでしまったからだ。

 それまでも、上司としては尊敬と信頼を寄せてきた。しかし、わたしの中に今までとは違う、胸が甘く締めつけられるような思いが芽生えた瞬間だった――。


 あの時の笑顔は、今もずっと胸の中に残っているのだけれど……そろそろ彼を諦めるいい時期かもしれないな。

 ふと、手元に置いてある週刊誌に目をやる。表紙には大きな赤い字で【㈱甲斐建設の御曹司、次のお相手は女優!】と記載されている。

 今年に入って何人目だろうか。副社長のお相手とうわさされる人物を見聞きするのは。

「はぁ……」

 誰もいないのをいいことに、大きなため息をついた。見ないほうが精神衛生上よいことはわかりきっているのに、つい好奇心に負けてページをめくってしまう。

 するとすぐに、自分のボスである副社長の顔が誌面に現れた。モノクロの写真だったが、それでも輝くほどの魅力が伝わってくる。

 甲斐建設の御曹司。仕事もできて、皆が振り返るほどの容姿をしていて……。世の中の女性たちが放っておくわけがない。そして彼自身も、美しい女性たちとの時間をそれなりに楽しんでいた。

『それなり』といったのは、彼は特定の女性と長く付き合うことはなかったから。気がつけば、いつも隣に新しい女性が立っているような状態だ。

 しかしどの女性も、彼に釣り合うような素敵な女性ばかりだった。タレントやモデル、旧華族の名家のお嬢様、彼と対等に渡り合えるような企業を経営しているバリバリの女社長さんなんかとも噂になったことがある。いくらわたしが思いを寄せ、懸命に尽くしたとしても、到底太刀打ちできるような相手ではない。

 そのことは最初からわかっていたはずだ。自分が周りからなんと言われているのか、こと悪いものに関してはすぐ耳に入ってくる。

 それは、副社長の秘書になってすぐのことだった。給湯室で後輩の秘書たちが噂をしていた。

『副社長が乾さんを秘書にしたのって、彼女を女として見てないからでしょう。だって、副社長は仕事とプライベートはきっちり分けるタイプらしいから』

『そうなの? だったら、わたし、個人秘書にならなくてよかった~。まだチャンスがあるってわけよね?』

『あはは……可能性だけの話ならゼロじゃないかもね。女に見られないなんて最悪』

 あの時は、悲しみと悔しさをこらえて、そっとその場を離れた。

 もちろん、自分の思いが届くだなんて思ってもいない。けれど、事実を突きつけられるのはやはりこたえた。

 それからは、憧れの人にせめて仕事で認めてもらえることを目標に頑張ってきた。おかげでずいぶん信頼され、さまざまな仕事に関わらせてもらった。

 たとえば、海外での鉄道事業の入札に同行し、実際に現地を確認して、自分たちの会社がどんな仕事をこれから請け負うのか、間近で感じることができた。世界の経済を動かすといっても過言ではない企業経営者たちの話を身近で聞くことができた。こんな経験は、グループ秘書だったころにはまったくなかったことだ。

 しかし近くにいれば、忘れられるものも忘れられないわけで……。それどころか、思いはどんどん大きくなっていく。

「はぁ……」

 二度目の大きなため息をついた時、コンコンッとノックの音が響き、そして返事をする前に扉が開く。

 副社長室に通じる扉だ。向こうからやってくるのはひとりしかいない。

「いかがいたしましたか? 甲斐副社長」

 立ち上がり出迎えると、髪をかき上げながらこちらに歩いてくる。見ると、その顔にどこか不満の色が見て取れた。

「まいったな。これ」

 わたしのデスクの上にある週刊誌を指さした。掲載された記事のことを言っているらしい。

「ここって、この前無理して取材受けたところと同じ出版社だろ? これくらいの記事、もみ消すくらいしてくれてもいいと思わないか?」

「まぁ、お気持ちはわかりますけれど、出版社には出版社の事情があるでしょうし」

 わたしの言葉が気に入らなかったのか、彼はますます不満を募らせた。

「俺にだって、俺の事情があるんだ。あ~、また面倒なことになるぞ」

 言い終わるか終わらないかのところで、彼のスマートフォンが鳴り響く。

「チッ、思っていたよりも早いな。……もしもし、あぁ」

 前髪をかき上げながら電話に応え、副社長室に戻っていった。

 記事の出たタイミングと電話中の態度で、彼の母親からの電話だろうと予想できた。そして彼の口にした『面倒なこと』とは、おそらく彼の結婚について。この手の噂がたつたびに、見合いの話が持ち込まれる。彼の両親は、家庭を持たず浮いた話ばかりの息子を結婚させたがっているのだ。

 副社長になって三年が過ぎた。既に仕事でも大きな実績をいくつも残している。となれば、生涯の伴侶を……そして跡継ぎとなる孫の誕生を心待ちにしているのだろう。それは、彼がそういう立場にある人間だから仕方ない。いつか誰かと結婚をして、家庭を築く。世界に名を轟かせる甲斐建設の跡継ぎともあれば、私生活も周りに期待されるものだ。

 相手は、彼の周りにいる女優やモデルというような絶世の美女かもしれない。もしくは彼のご両親が選んだ、甲斐家の嫁としてふさわしい人と見合い結婚するかもしれない。いずれにしても……そう遠くない未来に、彼の隣には彼の妻の姿があるだろう。

 そしてそれは、決してわたしではない。女性であれば〝来るものは拒まず、去るものは追わず〟の副社長――その例外がわたしだ。

『身近な女には手を出さない。だから安心しろ』と、秘書になりたての時にはっきりとくぎを刺された。それは暗に『俺のことを好きになるな』と言われているようなものだ。

 思い出しても、チクンと胸が痛む。しかし、そんな資格さえない。

 不毛な恋は、できるだけ早く終わらせよう。

 引き出しの奥にしまっていた退職願に、日付を書き込む決心をした。

 副社長が誰のものでもないなら、そばにいて淡い恋心を抱きながら片想いを続けるのもよかった。彼のそばにいられるだけで幸せを感じることができたから。でも、彼の口から奥様の名前や、幸せに満ちたエピソードを聞かされるとなると、とても我慢できそうになかった。

 むなしい片想いを終わらせる時がきたのだ。

 わたしが副社長の秘書として過ごす時間はあとわずか。新しい一歩を踏みだすと心に決めたのだった。

「副社長と秘密の溺愛オフィス」を読んでいる人はこの作品も読んでいます