副社長と秘密の溺愛オフィス

高田ちさき

プロローグ/第一章 / 副社長とわたし (1)


プロローグ


「これ、落としましたよ」

 振り向くと、ひとりの素敵な男性が、わたしが落としたカメオのブローチを拾ってくれていた。

 今の自分が置かれている状況などすっかり忘れて、思わず見とれてしまう。

 清潔に整えられた髪に、きりりとした眉。形のいい切れ長の目は、鋭さよりも知的さを感じさせた。

 スーッと通った鼻筋、品のある薄い唇。背もすらっと高く、高級そうなスリーピースのスーツを華麗に着こなしている。

 リクルートスーツに身を包んだわたしは、最終面接の行われる会議室に向かうため、『株式会社けんせつ』のエントランスにいた。

 緊張していたわたしは、少しでも心が落ち着くように、母親の形見でもあるブローチをポケットに入れていたのだけれど、ハンカチを取り出した時に落としてしまったようだ。

「ありがとうございます!」

 深々と頭を下げたわたしに、その男性はニッコリと笑った。

「これから面接? 頑張ってね」

「はいっ!」

 ほんのひと言だったけれど、その男性の応援が心に響いた。


 * * *


『これは、わたしが二十歳の誕生日に母にもらったブローチなの。これからなにか困難なことがあっても、これがあなたを守ってくれるわ』

 二十歳の誕生日。そう言って母から譲り受けた。

 ふたりのキューピッドがモチーフになっている、年代物のカメオのブローチ。二十歳の、まだ円熟していないわたしが使いこなすには少々難しいものだ。しかしそれを手にした時、ふと気持ちが温かくなったような気がした。

 母の言ったことをみにしたわけではないけれど、それはわたしのお守りのような存在になった。

 今思えば……あの数ヶ月も、このカメオのキューピッドたちが起こした奇跡だったのかもしれない――。




第一章


副社長とわたし


「かしこまりました。では、そのように手配いたします」

 副社長室の隣にある個室で電話応対を終えた、わたし、いぬい は、すぐにパソコンでスケジュールの更新をする。

 来週も、既にいっぱい……と。

 ぎっしりと詰まった予定を見て、これ以上のスケジュール変更がないことを祈る。

 わたしの勤める甲斐建設は、国内最大手のゼネコンである。ビルやマンション、鉄道など、国内外でありとあらゆるものを作り、その名を世界にとどろかせている。関連会社を含む連結従業員数は十万人を超える大企業だ。

 その本社の秘書課に配属されて五年、副社長の秘書となって三年になる。

 辞令は、入社三年目の春だった。複数の役員の補佐を行うグループ秘書から、副社長の就任と共に個人秘書へとばってきされた。

 今までは、ベテランの課長クラスが個人秘書を務めるのが今までの習わしだったものの、当時副社長に就任したばかりの甲斐ひろが『彼女を秘書』にと言い出したのだ。

 わたし自身、分不相応だとは十分理解していた。しかし辞令を跳ねのけて、仕事を失うようなことはできない事情があった。

 わたしの両親は、わたしが大学を卒業する年に、小型飛行機の事故で亡くなった。既に成人しているとはいえ、突然のことに『どうして?』という思いで涙を流した。

 あの時を思い出すと、今でも悲しみが体を駆け巡る。しかし、いつまでも落ち込んでいるわけにはいかなかった。

 わたしには五つ年下の弟がいる。当時十七歳だった弟のつばさを支えるために、がむしゃらに働いた。

 正直、他の女性秘書のように人の目を引くような華やかさはわたしにはなかった。頑張ってお化粧をしてみてもどうにもうまくいかず、結局社会人として――よく言えばナチュラルメイクを、失礼じゃない程度にするだけ。洋服もりのファッションに挑戦してみようと思ったこともあるけれど、そもそも自分に自信がなくてお店に入る勇気さえなく……結局のところ、無難なスーツを身につけることが精一杯だった。

 そんなわたしは、接待向きではない。しかしそれを理解して、地道にコツコツと経験を積み上げてきた。武器になるものを持っていないのならば、努力をするしかないからだ。

 そして地味で目立たないまま、平穏無事にずっとやっていくつもりだった。それこそがわたしの望んだことだから。

 周りよりも早く出社し、どんな小さな仕事でも一生懸命、文句も言わずにこなしていった。迅速に、正確に、そして笑顔で。秘書に必要だと思うものはすべて身につけた。失敗することもあったが、二度と同じ間違いはしない。常に上司の動きを頭に入れ、先回りして動いた。

 とにかく弟に不自由な思いをさせないためにも、わたしは多くの時間を仕事に費やしていた。

 それゆえに副社長付きの秘書になった時は、周囲を納得させるべく、よりいっそう仕事に没頭したのだった。

 その努力が実り、副社長の秘書になって四年目の今となっては、おおっぴらにわたしを批判する人はいなかった。それどころか『完璧が服を着て歩いている』とまで言われ、一目置かれるようになった。

 そして……わたしが仕事を頑張ったのには、他にも理由があった。今の仕事に抜擢してくれた副社長のためだ。

 御曹司である彼の秘書になること。それは、ゆくゆくはこの大会社である甲斐建設の社長秘書になるということを意味する。

 一番の出世といわれるトップ付きの個人秘書になるのを目標とする男性秘書にはじまり、あわよくば未来の花嫁に……という思いで副社長のそばにいたいと願う女性秘書など、誰もが就きたがるそのポジションに、競馬でいうところの〝大穴〟であるわたしに声がかかったのだ。

 わたしが副社長の秘書を望んだわけではない。けれどやっかみは、それを決めた彼ではなくわたしにすべて向けられた。

 それまでグループ秘書として二年間、自分に注目が集まることなどなかったわたしにとって、副社長の秘書になってからの数ヶ月間は胃の痛い日々が続いた。

『小娘になにができる?』と言わんばかりの、ベテラン秘書の目。『地味で目立たないあの子が、なぜ?』という、若い女性秘書からの辛辣な態度。

 それにえて、失敗できないというプレッシャーに押しつぶされそうになっているわたしを救ったのは、他でもない副社長だった。

 初めこそ、『どうしてわたしが……』という恨み言を心の中で漏らした。

 しかし副社長の言葉で、わたしの気持ちが一変した、今でも心に強く残っている出来事がある。それは、副社長秘書となって半年ほど経った時のことだった。

 ――わたしはその日、初めてスケジュールのダブルブッキングをしてしまった。

 直前になって気がついたわたしは動転してしまい、なにもできずにただ青ざめるだけだった。皆の言うとおり自分には荷が重すぎる仕事だったのだと落ち込み、なすすべもなかった。

 一生懸命やったところで、結果がこれでは無駄な努力というもの……。

 しかし、目の前で立ち尽くすわたしを前にして、副社長はニッコリと笑った。

「乾、やっとミスしたな。これまであまりにも完璧だったから、俺はサイボーグを秘書にしたのかと思ってたよ」

「へ?」

 ど、どうしてこんな時に笑ってられるの?

 アポイントの時間まであと一時間。先方の移動時間を考えれば時間がないも同然だった。

 ぜんとして副社長を見つめていると、彼は内線で営業部長に連絡をとる。

「あ、もり部長? 確か、『ふくけんざい』の社長とはゴルフ仲間でしたよね? あと一時間ほどしたらいらっしゃるので、少しお相手願えませんか? ――はい、えぇ」

 どうやら一方のアポイントにピンチヒッターを立てることにしたらしい。受話器を置くとすぐに、別のところに電話をかけ始めた。すぐに、相手方に断りを入れる電話だということがわかる。

「すみません。はい、わたしもお会いできるのを楽しみにしていたのですが――」

 電話の最後には和やかな笑い声を上げていた。

「――これで、よしっ」

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