イジワル御曹司と花嫁契約

及川桜

始まりの鐘が鳴る (2)

「え? だって、パーティーだよ? しかもセレブばっかりが集まるパーティー。退屈そうだし、なにより弁当屋が忙しいし……」

「素敵じゃない。行ってきなさいよ。ここのところ、ずっと休みなく働いていたんだから、息抜きも必要よ」

「ええっ! でも……」

 渋る私に、母はなおも強く推してくる。

「お母さんがこんなことになって、胡桃はずっと頑張ってきたんだから羽を伸ばして楽しんできてよ。そしてお母さんにどんな集まりだったのか教えて。胡桃の話を聞いて、お母さんも行った気になって楽しむから」

 弾んだ声で無邪気に言う母を見て、心が揺れた。

「美味しい料理が出てくるらしいよ」

「まあ! なにかしらね! キャビアとかフォアグラとか……?」

 セレブが食べる美味しい料理と聞いて、親子揃ってキャビアやフォアグラしか思い浮かばないとは。それがおもしろくって思わず噴き出した。

「それじゃあ、どんな料理が出てきて、どんな人たちが来るのか、観察するために行ってみようかな」

「うん、行っておいで」

 そう言った母は、とても優しくて柔和な笑顔をしていた。

 商店街の一角の軒並みに、客が四人も入ればいっぱいになってしまうほど小さな弁当屋がある。そこが、母の店だ。

 店内に椅子はなく、カウンター越しに注文を聞く。

 私は一応、調理と接客を担当しているけれど、主に作っているのははぎわらさんという明るく人のいい六十代のおばさんだ。

 萩原さんは、父が亡くなってから、かれこれ十八年はうちで働いてもらっている。母が入院してからは、定年で仕事を辞めたばかりのご主人を無理やり店に引っ張ってきて、夫婦で店を手伝ってくれているのだ。

 萩原さんのご主人もいい人で、もくだけどていねいな仕事をしてくれて助かっている。母が退院してからもふたりで働いてほしいと思っているくらいだ。きっと今まで以上に店が明るくなってはんじょうするだろう。

 でも、一体いつになったら母は退院できるのだろう……。

 客足が途絶え、夕焼けも沈みかけた頃、ふと思い出したように時計を見上げた。

 短針はもうすぐ六を示そうとしている。いつもなら母の病院に行くために、あとは萩原さんに任せて店を出る。でも今日はパーティーに行く日だから慌てなくてもいい。出港までまだ十分に時間があった。

 時計を見つめている私に気が付いた萩原さんは、大きな声で言った。

「そうだ、今日はパーテーの日だったね! 片付けはいいから、早く行っておいで」

 萩原さんは何度指摘しても、パーティーを〝パーテー〟と言う。その発音がおもしろいから、今はもう流している。

「ううん、大丈夫。出港は二十時だからまだ時間はあるの。ここから三十分で着くし、今日は戸締まりまで店にいられるよ」

 商店街の客層が高齢なので、店を閉める時間も早い。うちは十九時過ぎにはシャッターを下ろす。

「ちょっとやだ、その格好のままパーテーに行く気?」

 黄色いエプロンの下は、いつものジーパンにTシャツ姿の私を見て、萩原さんは顔をしかめた。

「え、駄目かな?」

「駄目よ! とびっきりおめかしして行かなきゃ! 今から家に戻って、着替えて化粧もして……あらやだ、時間がないじゃない」

「ええ、化粧も?」

 面倒くさそうな私の背中を押して、従業員出入り口へと誘導する。

「もちろんよ。胡桃ちゃん、素材はいいんだから化粧したら化けるわよ、きっと。いい出会いもあるかもしれないし。さっ、ほら早く行った」

 いい出会いねえ……。でも来るのはセレブばっかりでしょ? 次元が違いすぎて、会話すら合わない気がする。

 なかば追い出されるように店を出た私は、渋々ながら家に向かった。


 弁当屋からほど近い築四十年は経つ、おんぼろアパートの階段を上がる。二階の角部屋の鍵を開けると、1DKの狭くて年季の入った部屋が出迎えてくれた。

 部屋に入ると目に入るのが、小さなテレビとちゃぶ台と座椅子がふたつ。掃除はまめにしているけれど、壁の染みやキッチンのステンレスについたさびはもう落ちない。

 母がいた頃は、こんな古くて狭い家でも楽園だった。小さな電球の明かりでも、部屋の隅々まで明るく感じたし、冬でも身を寄せ合っていれば暖かかった。

 決して広いとは言えない部屋なのに、今は持て余してしまっている。無機質で底冷えのする部屋だと感じるようになってしまった。

 もしも母がこのまま帰ってこなかったら……。

 そう思うと芯から冷えるような心持ちがして、ブルッと震えた。

 すぐに浮かんでしまう嫌な考えを打ち消すために頭を左右に振って、気を取り直してからクローゼットを開ける。

 半畳ほどの小さなクローゼットなのに、親子ふたり分の洋服をハンガーに吊るしてもまだ余裕がある。選べるだけの量はなく、着るものは限られていた。

 唯一あるよそ行きのワンピース。薄桃色をしたAラインのかわいらしいこの服は、去年の誕生日に母が私にプレゼントしてくれたものだ。膝丈で、動くとひらひらとスカートが揺れる。

 もったいなくて、外に着ていく機会がなかったワンピースを着ると、まるで母と一緒に出掛けるみたいで嬉しくなった。

 七月の初旬とはいっても、夜の外は冷える。ノースリーブのワンピースの上に白いカーディガンを羽織り、いつもひとつ結びしている髪を下ろした。肩下まである黒髪は、くせ毛なので先端は少しウェーブがかかっている。

 化粧をしたら化けると萩原さんが言っていたのを思い出し、化粧ポーチを開けた。

 萩原さんは、私がいつもスッピンみたいな口ぶりだったけど、一応ファンデーションとリップくらいは塗っている。

 私だってもう二十三歳。身だしなみ程度には化粧してるんだけどな。

 いつもは使わないマスカラやチークなんかも使って、入念に化粧をしてみた。

 髪も下ろしたからか、鏡にはいつもより大人っぽくなった自分が映っていた。

 目は二重だけど決して大きくはなく、鼻は小さく唇は薄い。全体的に地味な印象の顔で、唯一の取り柄は顔が小さいところか。髪を結ぶと高校生くらいに間違われるほど幼い顔立ちも、化粧をした今は年相応に見える。

 支度を終えて玄関に行くと、困った事態が起きた。ワンピースに合う靴がない。いつもスニーカーばかりだから、パンプスなんて持ってない。

 どうしたものかと思って下駄箱を睨んでいると、奥の方に見慣れない箱を見つけた。取り出して開けてみたら、白のハイヒールが入っていた。

「お母さん、こんなの持ってたんだ」

 思わず独り言がこぼれる。

 つま先を入れてみると、少し大きい気はしたけど履けないことはない。

「お母さん、借りるね!」

 意気揚々と立ち上がり、玄関のドアを開けた。

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