偽りの婚約者に溺愛されています

鳴瀬菜々子

本当はあなたが好きです (2)

 髪は社会に出てから伸ばしているので肩まであるが、服装はいつもパンツスーツ。これが定番スタイルだ。むしろ普段着や仕事のスーツ類では、スカートやワンピースなんて持ってすらいない。靴だけは低いヒールのついたものを履いているが、これも慣れてきたのはほんの最近だ。

 男性には相手にされないが、昔から女性にはモテる。もちろん二十六歳になった今でも、恋の経験など皆無だ。

「おー、お疲れ。皆、そろそろ会議室に移動しろよー」

 企画課のオフィスに入った瞬間、松雪さんが大きな声で言う。

「松雪さん、廊下にあったサンプルの箱はどうしたんですか。ひとつもないんですが」

 不思議そうな顔で、男性の同僚が松雪さんに尋ねた。

「ああ、それな。笹岡が運んでくれたそうだ。もう会議室にある」

「ええっ。あれを全部ですか? マジか。やっぱり〝男オンナ〟だな」

 松雪さんの隣にいた私に、皆が視線を向ける。同僚のその言い方に少々ムッとしたが、それをぐっとこらえ、私は皆に笑顔を向けた。

「ええ。軽かったのでお気になさらずに。力仕事は得意ですから。男性よりも早く運べますよ。なんといっても私は男オンナですからね」

 おどけたように言うと、皆はどっと笑った。

「気になんてしないよ。笹岡は俺たちよりもよっぽどたくましいもんな」

「笹岡さん、格好いい」

「本当、男だったらよかったのに~」

 ええ、ええ。そうですとも。男らしくて悪かったわね。

 そう思いながらも笑顔は崩さない。

 ずっとこんなふうに周囲から見られてきた。今さら傷ついたりはしないから、なんとでも言えばいいわ。

「おい。違うだろ! 初めに言う言葉は『ありがとう』だろうが!」

 急に私の隣で松雪さんが怒鳴った。

 私を含め、辺りが静まり返る。笑っていた人たちも驚いた顔で松雪さんを見た。

「笹岡は女性なんだぞ。荷物運びは男の仕事だろ!? 今後は、気づいたやつは率先してやれよ。俺もそうするから」

 そう言って皆をひとしきり睨んだあと、松雪さんは優しいまなしで私を見下ろした。

「本当にすまなかった。今後は遠慮なく人に頼むんだぞ。ありがとう」

「嫌だ。本当に大丈夫ですから、お礼なんて言わないでください。こちらこそ、勝手なことをしてすみませんでした」

 こんなとき、心から思う。私は素直じゃない、と。

 松雪さんの部下になってから、こうして何度も優しくされてきた。そのたびに思わず反発するような言い方をしてしまう。

 だけど、こんな人に出会ったのは初めてだから仕方がない。女性として優しくされることに、私はまったく慣れていないのだから。

 先ほど私に告白をしてきた沢井さんと私は、実はあまり変わらないのかもしれない。少し優しくされただけで期待してしまう。

 このようなことがあった場合、彼はただ上司として優しいだけだ、と自分に言い聞かせてきた。

 仕事がデキて、格好よくて女性にモテる。そんな彼が、私を特別に想っているはずなどないのだから。


 私たちが勤めるこの会社『ササじるし』は、国内では名の通った老舗しにせの文具メーカーだ。文具業界での国内シェアは上位にのぼる。

 私はここで商品の企画課に所属していて、日々新商品の開発に携わり、忙しい毎日を送っている。

 実はこの会社は、私の父が経営している。将来はひとり娘である私が継ぐように言われながら育ってきたが、今はまだそんなことは到底、想像もつかない。仕事も半人前なのに経営だなんてとんでもない。目下、修業の毎日だ。もちろん、周囲に特別扱いされないように身分は隠している。

 私の名前は笹岡ゆめ。入社四年目の二十六歳。

 女性らしさはないのに、名前が〝夢子〟。自分でも似合わないと自覚しているが、こればかりは仕方がない。

 中学と高校は、地元でも箱入り娘の集まりだと噂されるエスカレーター式の名門お嬢さま女子校だった。そこで女らしくなることが、日々男らしくなっていく私を心配した両親のたっての願いだったのだ。

 しかしそれが逆にあだとなり、自分で言うのもなんだが、私はそこで女の子たちの憧れの的となってしまった。バスケ三昧の日々を送っていて、ますます男らしさに磨きがかかった。

 私の当時のあだ名は〝王子〟だった。一時期は騒がれているうちに、このままであるべきだと思い込み、本当に男なんていらない、このままずっと女の子と一緒にいたほうが楽しいのではないかとまで考えたりもした。

 だけど卒業した途端に、当然のごとく『普通の女の子として恋がしたい』と憧れ始めた。共学の大学へ進学して、素敵な男性が身近になったり、友達カップルを見て羨ましくなったりしたからだ。

 でも多感な時期をほぼ男のように過ごしてきた私には、もちろん男性への免疫などない。どうしたら他の女の子たちみたいに可愛くなれるのか、男性と恋ができるのかわからないまま、今も過ごしている。


 会議室へと移動するために、準備中の手をふと止めて松雪さんのほうを見る。デスクで資料をまとめる彼の顔が、私のデスクの位置からはよく見える。

 照明を落としたオフィスの中で、窓から射し込む光が彼を照らす。その光は端正な顔立ちの彫りをさらに深くしていて、彼は男性なのに本当に綺麗だと思う。伏し目がちな目を縁取る長いまつ。少し茶色がかった髪。

 ここからときおり彼を見つめながら、少しずつ募らせてきた想い。

 普段からいつも優しくて、『私は女性なんだ』と思わせてくれる。そんな唯一の男性である彼に心をかれるのに、時間はそうかからなかった。

 彼は松雪とも、二十九歳。二年前に、社長である父の紹介で彼が入社してきて間もない頃から、私は彼をひとりの男性として意識してきた。

「ん? なんだー、笹岡。俺に見とれてないで早く準備しろよー」

 私がぼんやりと見つめていることに気づいた彼が、おどけた口調で話しながら笑う。

「見とれてなんていません。松雪さんは本気で自意識過剰ですよ」

 言いながら慌てて目をらす。

「真に受けるなよ。冗談だよ」

 入社当初から課長待遇で、敏腕エリートと噂される彼だったが、初めから距離はまったく感じさせなかった。二年経った今も、彼を役職ではなく名字で呼ぶ部下のほうが多いほどだ。

 彼が私に対して恋愛感情を持つはずなどないとわかっているから、私はこの気持ちをずっと封印している。

 迷惑だと思われたくない。今の関係を壊す勇気もない。これからもずっと、この想いを松雪さんに告げることはないだろう。

 以前飲み会で酒に酔った同僚が、彼女はいるのかを彼に尋ねると、『今は恋人はいない』と答えていた。それを聞いて人知れずあんした私だったが、彼に本当に好きな人が現れたなら諦める覚悟もできている。

 この先も、あなたが好きだなんて、絶対に言わないつもりだ。

「おーい、笹岡。行くぞー」

「はい。あ、これも持っていかなきゃ」

 慌ててデスクに戻り、ファイルを手にする。

「しっかりしろよ。速乾性のサインペンは君の案なんだからな」

 焦る私を見ながら、彼はクスクスと笑う。

「私の案じゃないですよ。松雪さんのヒントがないとできませんでした」

「はいはい、わかったよ。そういや君は素直じゃないんだった」

 歩きだした彼を追うように、私もデスクをあとにした。

 もしも私が好きだと伝えたなら、あなたはどうするのだろうか。きっと困った顔で笑いつつ、そっと私の頭をでるのだろう。

『笹岡……ごめん。俺は君をそんなふうには思えなくて……』

 隣を歩く彼を見上げながら、そういう言葉を口にする彼の様子が頭に浮かんだ。

 ゾクッと背中になにかが走り、急に怖くなる。

 知られてはいけない。彼が引いてしまわないよう、この距離を保たなくては。

 強く思いながら、彼から目を逸らした。

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