王太子殿下の溺愛遊戯~ロマンス小説へトリップしたら、たっぷり愛されました~

ふじさわさほ

0日目 ロマンス小説の前夜 (3)

 それなのにこれまで一度も会う機会がなかったのを、逆に不自然に思っていたところだ。

 稀斗は瑛莉菜の容貌をぼんやりと思い浮かべた。兄の部屋の写真に写るのは、七年前の彼女だ。かすかな緊張に鼓動が一拍遅れる。

 奥の部屋からはいまだに人が出てくる気配はない。それどころか、ふたりの話し声もなかった。ただ部屋の中を何者かが右往左往している様子だけが伝わってくる。

 奇妙な胸騒ぎがした。誰かが自分を呼んでいるような。大きな失くし物をしたかのような心もとない気持ちになった。モヤモヤとした焦りに急かされ、稀斗は慌ただしく廊下を進む。

 乱暴な音を立ててリビングのドアを押し開けた瞬間、胸の中になにかが飛び込んできた。

「稀斗!」

 逞しい腕にがっしりと腰を掴まれる。稀斗はよろめき、驚きの声を喉の手前でのみ込んだ。

 胴にしがみついているのは兄だ。

「やめろよ、気持ちわりーな」

 弥生の腕を引きがしながら、部屋の中に視線を走らせる。

 瑛莉菜の姿が見あたらないので、稀斗は急激に暗い気分になった。訪問者は彼女ではなかったのかという落胆ではない。理由のない失望と焦燥が稀斗の心臓をぎゅっと握りつぶそうとする。

「宇野ちゃんが……」

 縋りついてくる弥生の声が恐怖に震えている。兄の双眸が潤むのを見て、稀斗はギョッと目を瞠った。

 この兄はいつもおかしいが、今日は特別様子がおかしい。

「宇野ちゃんが、消えちゃった……!」

「は? なに、どういうこと。なにがあった」

 稀斗は黒い目を鋭く細めた。

 やはり宇野瑛莉菜はここにいたのだ。部屋に残された彼女のバッグやコートが不安を煽る。まるで本人だけが忽然と気配を消したようだった。

「どこにもいないんだ、トイレもお風呂も、ベッドの中も見たけど」

 稀斗は眉根を寄せて険しい顔になった。

 普段のんびりとした気質の兄がここまで取り乱すということは、なにかとんでもないことが起こっているのかもしれない。この際、弥生が相当見当違いな場所を探していることには突っ込まないでおく。

 稀斗はもう一度部屋の中をぐるりと見回してから、弥生に視線を戻した。

「どのくらい戻ってきてねーの」

「ついさっきだよ。目の前にいたんだ、まさかあんな……」

 弥生がボサボサの髪に指を突っ込んで頭を抱える。

「コンビニ行っただけとか?」

 背中に嫌な汗が伝う。稀斗はなるべく論理的に考えようとした。

 神隠しでもあるまいし、冷静になって探せばすぐに見つかるはずだ。彼女のパンプスは玄関にあったけれど、弥生のサンダルを履いて出かけたのかもしれない。

「違う!」

 玄関に向かおうと踵を返すと、弥生が悲痛な叫び声を上げて背中に飛びついてきた。

「んだよ、痛ってーな! 違うってなにが! 宇野さんいなくなったんだろ!?

 兄の奔放さと適当さには十分慣れているつもりだったが、要領を得ない言動につい声を荒らげて振り向く。なぜだか焦る気持ちを抑えられない。胸の内に迫りくる不安に吐き気がしそうだった。

 なにか厄介な事件に巻き込まれているのでなければいいが……。

 ふと、テーブルの上にある瑛莉菜の写真が目に入った。例の初恋の相手と写る彼女の姿が、稀斗の喉をキュッと締め上げる。

「宇野ちゃん、ついさっき消えたんだ! 俺の目の前で」

「は?」

 稀斗は震えながらしがみついてくる兄を見下ろした。

「目の前で消えたって、兄貴は宇野さんがどこに行ったか見てたのか?」

「見てたけど、分からないんだ。でもたぶんもうこの世界にはいないと思う」

「はあ?」

 稀斗には弥生の言っていることがほとんど理解できなかった。兄も自分も、一度頭を冷やして状況を把握するべきかもしれない。

 稀斗は肺の奥から大きく息を吐き出した。

「……とりあえず、初めからちゃんと説明してくれ。宇野さんが、その、消えたときのこと」

 自分自身を落ち着けたくて低く抑えた声で言うと、弥生は神妙な顔でうなずいた。ついさっきまで瑛莉菜が座っていた椅子へ弟を案内する。

 そしていびつな形の青い壺を前に、たしかにその椅子に座っていたはずの瑛莉菜が、突然姿を消したときのことを話し始めた。


* * *


「……じゃあ、この壺の中の変な実を食って、宇野さんは小説の中に入り込んだ。兄貴は本気でそう思ってるんだな?」

「たぶん。そうとしか考えられない」

 稀斗は弥生から話を聞き、兄の意見を確認すると、形のいい唇を真っすぐに引き結んで黙り込んだ。

 弥生はほとほと困り果てている。目の前で見ていた彼にさえ、瑛莉菜の身になにが起こったのか説明することができなかった。本当に、小説の中に入ってしまったという以外には。

 新作はまだプロット段階で、結末も決まっていなければ設定すら危うい。瑛莉菜が本当に小説の中に入り込んだということを確認する術もなかった。

「……分かった」

 稀斗はなにかを決意したようにつぶやくと、テーブルの上に置いてあった青い壺を引き寄せた。

「本当に、この変な実を食って小説の中に入り込むのか。それを確認する手立てはひとつだけだ」

 この部屋で兄弟揃ってぐずぐずしていても仕方がない。

「俺がもう一度この実を食うから、同じように消えるかどうか、兄貴はそこで見てろよ」

「ダメだ!」

 弥生は弾かれたように目を瞠り、弟を見た。

 稀斗のかげりのないまなざしとはっきりとした声音を聞けば、いくら弥生が止めたところで意思を変えないことは分かっている。稀斗は意外と頑固なのだ。

 それでも弥生には、大事に思う相手がわけも分からず目の前で姿を消すことに、二度も耐える自信がなかった。

「それなら、俺が食べる。稀斗はそこで見てろ」

 弟から青い壺を取り上げようとすると、稀斗がムッとして両腕で壺を抱える。

「いや、俺が行く」

 不機嫌そうに唸る稀斗は、子どもの頃、兄から大事なおもちゃを取られないように守ろうとしていた弟そのものだ。

「だいたい、兄貴は小説の作者だろ。物語を創造する神様みたいなものだし、小説の中に入った俺らを救えるのは兄貴だけだ」

 小説の筋書きを決められるのは弥生だけ。たしかに、弥生になら小説の中に入った瑛莉菜を救えるのかもしれない。

「……なるほど」

 弥生は妙にすんなり納得させられた。瑛莉菜が姿を消すのを見てから失っていた平静さが、急激に手もとに戻ってくる。

「でもそれなら、稀斗が宇野ちゃんを追いかける必要もなくないか」

「……うるせーな、とりあえず本当に小説の中に入るのかどうか試すんだろうが」

 稀斗は首を傾げる弥生に強引にそう言い、床に転がっていた弥生愛用のノートパソコンに手を伸ばす。

(んなもん、黙って見てられるかってーの)

 瑛莉菜がどこへ行ってしまったにしろ、今の稀斗にとって追いかける以外の選択肢はなかった。きっと彼女は待っている。なぜかそんな気がするのだ。先ほどから胸を占める説明のつかない強烈な喪失感が、稀斗を突き動かそうとしている。

 むすっと眉を寄せた稀斗は、乱暴に拾い上げたノートパソコンを弥生の前に置いた。

「あ、ちょ、もうちょっと丁寧に……」

「とにかく、兄貴は早く小説書けよ。どういう仕組みかは分からないけど、向こうとこっちでうまくやれば戻ってこられるだろ」

 弥生はまだ半分ためらっているようだったけれど、その両手はしっかりとノートパソコンに向かっていた。

 どうやら、創作意欲を刺激されたらしい。不安な表情の中に、ほんの少しの期待と好奇心が入り交じり、しっかりと開いた目で冒険を楽しもうとしていた。

「き、気をつけて行ってこいよ」

 弥生がパソコンの電源を入れるのと同時に、稀斗は壺の中に手を突っ込む。空色のラズベリーを指先でつまみ上げた。

「それじゃ。よろしく頼むよ、〝神様〟」

 弥生が画面へ視線を移し、稀斗は禁断の青い果実を口の中に放り込む。

 そして瑛莉菜のときと同じように、稀斗は音もなく兄の前から姿を消した。

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