王太子殿下の溺愛遊戯~ロマンス小説へトリップしたら、たっぷり愛されました~

ふじさわさほ

0日目 ロマンス小説の前夜 (2)

 弥生を通してお互い話に聞くことはよくあるけれど、瑛莉菜はまだ一度も顔を合わせたことがない。もっとも、稀斗のほうはこの写真を見ていて、瑛莉菜の容姿は分かっているはずだ。それと、彼女の初恋についても。

「はあ……」

 瑛莉菜は手の中の写真を見てため息をついた。できることなら、このまま一生稀斗とは顔を合わせたくないような気がする。

「キャラが勝手に動いてくれれば楽チンなのになあ。あ、そうだ、宇野ちゃんちょっと小説ん中入っておもしろくしてきてくれない?」

「なにアホなこと言ってるんですか。ほら、とにかくもう一度設定から確認しましょう」

 瑛莉菜は猫の首根っこを掴むように、弥生のくたびれたトレーナーのえり部分を掴んで引き上げた。体を起こした弥生は思案顔で、眉を寄せてなにやら真剣に知恵を絞り始めたようだ。

 どうせまた、くだらないことを全力で考え込んでいるに決まっている。

 瑛莉菜は深くため息をついてから、話を脱線させまくる弥生のことは放置して勝手に進めることにした。この人から新しいアイデアが出るのを待っていたら、今夜は家に帰れそうもない。

「まず、ウィルフレッド・ランス公爵は国王に呼び出されて、王太子と国のために〝禁断の青い果実〟を完成させるように言われますよね。そして伯爵令嬢であるウェンディに近づき……」

「それだ!」

「ぅわ! な、なんですか」

 弥生は叫び声とともに立ち上がると、キッチンの奥へ駆け込んでいった。さっきまで死んだ魚のような目をしていたくせに。再び姿を見せたときにはその手に妙な壺を持って、奇妙なほど自信に満ちあふれた顔をしていた。

 弥生は怪しむ瑛莉菜の前に、いびつな形をした青い壺をそっと置く。

「宇野ちゃん、物語の中に出てくるその禁断の青い果実の材料を言ってごらん」

「はあ」

 瑛莉菜は片方の眉を器用に上げて、得意顔で隣に立つロマンス小説作家を見上げた。

 あまりいい予感はしない。それでもとりあえず弥生が動く気になってくれたのだからと、言われた通りにする。

「……はちみつと、ブルーローズと、それからラズベリー」

「うむ、正解!」

 弥生が壺にかぶせてあったラップを取ると、甘酸っぱく濃厚な香りが漂ってくる。おそるおそる中を覗けば、空色に染まったラズベリーのような実が見えた。

「あの、まさかとは思うんですけど……」

 瑛莉菜が眉をひそめて苦い顔で壺から弥生へと視線を移すと、彼はウキウキとうれしそうに笑う。

「作ってみたんだよ、禁断の青い果実」

 とっておきの秘密を共有するかのようにそう告げて、のどの奥で小さく笑い声をもらした。

 瑛莉菜はぼうぜんと弥生を見上げる。やがて爆発したみたいに勢いよく立ち上がった。

「なにをくだらないことやってるんですか! もう無理だなんて弱音吐いてたくせに。暇なら小説書いてくださいよ!」

「やだなあ、くだらなくはないよ。作品理解のためには必要なことだろ」

 弥生がニヤニヤと満足そうに笑う。そのことが余計に瑛莉菜の怒りをかき立てるのを、弥生もきちんと分かっていた。

「だいたい、ブルーローズとか、どこで手に入れたんですか。そんなことに手間をかけるエネルギー、ちょっとは執筆に向けられないんですか」

「まあまあ、いいじゃないの」

 弥生は怒りに震える瑛莉菜の肩を掴んで椅子に座り直させると、禁断の青い果実が入った壺を彼女の目の前にズズッと押しやった。

「いいね、宇野ちゃん。イメージするんだよ」

 瑛莉菜の耳もとで、呪文を唱えるように妖しくささやく。

「異世界のものを食べるとその世界の人間になるっていうのは、大昔からある話だろ。宇野ちゃんには公爵の侍女とかぴったりだと思うな」

「はあ? まさかこれを食べれば小説の中に入れるだなんて本気で……」

「いいから、いいから! 俺もまだ食べてないんだよ、楽しみにとっておいたんだから。味見してみてよ」

 瑛莉菜は憤慨したまま弥生を見上げた。全力で反抗の視線を注いでみても、弥生は期待に満ちた表情でジッと待っている。

 根負けするのはいつも瑛莉菜だった。彼女は力なく首を振り、青い壺に手を伸ばす。

 仕方がない。これを食べたところで、困ることといえばせいぜいお腹を壊すくらいだ。まさか本当に小説の中に入り込むなんてこと、あるわけがない。

「……気が済んだら、ちゃんとプロット練り直してくださいね」

「もちろん!」

 瑛莉菜はスプーンで空色のラズベリーをひと粒そっとすくい上げた。

 弥生は毎度こうして原稿をダシに彼女に突拍子もないことをさせる。それが彼の楽しみと息抜きなのだ。公私ともに瑛莉菜を困らせることが、弥生の趣味とも言える。

 瑛莉菜はこれまで何度も、弥生の無茶なお願いを聞き入れ、自らの身を差し出して彼の退屈な日々の刺激となってきた。すべては原稿を手に入れるために。初恋相手との写真を渡したことに比べれば、ちょっと変な色をしたラズベリーを食べることなんてなんでもない。一日くらい体調を崩しても、この男から原稿をもぎ取れるのなら安いものだ。

 瑛莉菜はその実を口もとに運びながら、小説の中で公爵の侍女として働く自分をちらりと想像してみる。

 そして、禁断の青い果実を紅い唇の向こう側に放り込んだ。


* * *


 稀斗は出不精の兄の部屋を訪れる前にスーパーで食品を買い、それから大型書店に立ち寄った。

 兄が書いた小説はいつも発売日に買っている。今度の『結婚しナイト!』のアニメ化を記念して、特別な帯のついた限定デザイン版が並ぶらしいのだ。弥生の部屋でサンプルを見せてもらったとはいえ、書店でお金を出して買ってこそ小説家としての兄をいっそう誇らしく思える。奮発して三冊も買ったものだから、店員に妙な目で見られはしたが。

 稀斗は一見兄とは正反対の、甘い顔立ちをした青年だった。均一な幅の二重と美しい切れ長の目。真っすぐな鼻すじ。薄く形のいい唇。それぞれを比べてみると兄とよく似たパーツを持っているのに、どこか王子様らしい雰囲気がある。まだ渋味のない容貌は、表情をなくせば冷たい作り物のようにさえ見えた。

 今や法人営業部のホープで、せいかんな顔つきと屈託のない笑顔とのギャップは誰の目にも魅力的に映る。そのくせ浮ついた噂はひとつもない。それがまた彼の人気に勢いをつけるのだ。稀斗の唯一の恋人となれば、きっとその愛を一身に注がれることだろう。非公認ではあるけれど、同僚たちからのあだ名は〝王子〟だった。

 すらりとした長身に三つ揃えのスーツをまとった〝王子〟風の見た目の男が、女性向け恋愛小説レーベルの同じ本を三冊も買う。これが店員の目にこっけいに映らないわけはなかった。

(……次から店変えっかな)

 稀斗は右手でネクタイを軽く緩め、スーパーの袋を持った手で兄の部屋のインターフォンを押した。ドアの向こう側でドタバタと歩き回る音は聞こえるものの、一向に開く気配がない。焦れてドアノブに手をかけると、予想通り、抵抗もなくスルリと開いた。

 稀斗は口端を引き下げる。過保護になるほどか弱い兄ではないが、無用心すぎるのはいただけない。もっとも、ここが姉妹か恋人の部屋だったとすれば、とっくに稀斗の雷が落ちて二重鍵を取り付けているところだ。

 稀斗は玄関のドアを閉めると、しっかりと鍵をかけた。振り返って靴を脱ぎながら、目に入ってきたものにひょいっと眉を上げる。女性もののパンプスがキレイに揃えて置いてあった。訪問者のほとんどない兄の部屋の玄関に。

 一瞬たじろいで引き返そうかとも思ったがすぐにピンときた。

 おそらく、兄がデビューしたときから付き合いのある出版社の、担当編集者のものだろう。彼女とはまだ顔を合わせたことはないけれど、宇野瑛莉菜という女性がかなりの頻度でここを訪れていることは知っていた。近頃の兄の交友関係では、稀斗の次に親しいとさえ言えるかもしれない。

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