クールな社長の甘く危険な独占愛

颯陽香織

あなたは誰ですか (2)

 私はマフラーを取り、ボサボサの髪を整えた。メガネをまっすぐかけなおし、背筋を伸ばす。ビジネスモードに切り替えて、社長室の扉の前に立った。

 静かに息を吐いて、ノックを二回。

 けれど扉の向こうからはなにも反応がない。

 あれ? 聞こえなかったのかしら。

 私はもう一度、今度は強めにノックをした。

 しばらく待ってみたが、やっぱりなにも聞こえない。もしかして、音が聞こえたと思ったのは、気のせいだったのかな。

 レバー型のドアノブにそっと手をかけて下ろし、扉を少し押してみる。

 鍵はかかっていない。やっぱり社長はいるの?

「失礼いたします」

 私は静かに扉を開いた。蛍光灯の白い光が目に飛び込んでくると同時に、誰かがしゃべるような、微かな音が聞こえる。

 私は少し扉を開きその間から顔を覗かせ、中の様子をうかがった。

 正面の大きなデスクの前に社長は……いない。代わりにブルーのA2サイズのパネルが、卓上を隠すように垂直に立てた状態で置かれているのが目に入る。

 なにあれ?

「ん……」

 うめくような声が右側から聞こえたのでそちらを見ると、チョコレート色のソファの上で寝ていた。

 ――社長が、寝ている。

 あまりにも意外で、私は思わず口に手をあてた。笑顔もそうだが、眠そうな顔さえ見たことがない。あくびなんてもってのほか。

 その社長が、ソファの上でぐーぐー寝ている。

 私は恐る恐る社長室へと足を踏み入れた。込み上げる好奇心に逆らえない。

 あの社長が寝てる姿なんて、きっと社内の誰も見たことがないわ。

 こっそり息を潜めてソファに歩み寄り、爆睡する社長を見下ろした。

 昨日と同じワイシャツにグレーのズボン。昨日着ていたスーツのままだ。いつもはきちっとネクタイが締められている首もとも大きく開いて、顔からは想像できないようながっしりとした鎖骨が見えた。

 ばくんと心臓が一回跳ねる。見てはいけないものを見てしまったような罪悪感が込み上げてきた。

 社長は、見下ろす私にまったく気がついていない。完全に無防備だ。眠っている彼は無害で、なおかつ、信じられないほどに美しい。この人が私と同じ人間だなんて、誰が信じられるだろうか。

 しばらく眺めていると、社長の唇が少し微笑んだ気がした。

「うわ」

 思わず声が出てしまった。

 笑えば最高に魅力的だろうと想像していたけれど、想像をはるかに超える破壊力。

 不覚にもドキドキしてしまった。まるで映画のワンシーンを見ているみたいだ。

「ん……」

 社長が突然うめいた。

 私は驚いて、とっさにうしろに飛びのいた。

 起きた?

 つい先ほどのときめきとはまったく違う種類のドキドキが始まる。この状況で社長と目が合うなんて、恐ろしすぎる。

 けれど、社長は頭をもしゃもしゃとかくと、再び夢の世界へ。私は安堵のため息をつき、そろそろと後ずさりした。

 よかった。このまま静かに帰ろう。社長が起きたら、大惨事だ。でも……。

 ちらっと、デスクの上のブルーのパネルを見る。さっきからあれが気になって仕方がない。あのパネルの向こう側から、すごく小さな声で誰かがしゃべっている。それも同じことを繰り返し繰り返し。

 いったいなんだろう、あれ。

 どうやら社長はまだ夢の中だ。再び好奇心が、ムクムクと膨らんできた。私はもう一度社長が寝ていることを確認すると、足音を立てないように、静かに社長のデスクに近づく。そしてパネルの向こう側をひょいっと覗き込んだ。

 十センチほどの小さな人形が、デスクの上に立っていた。粘土を丸めて作ったような大きな頭に、針金の長い手足。

 社長がいつも座っている革張りの椅子はどけられて、そこには大きなカメラがセットされた三脚が設置されている。

 不思議な小さいしゃべり声は、社長のパソコンからだった。人形が歩いていると、突然その頭が取れるという動画がずっと繰り返し再生されている。

 よくよく聞いてみると、その声は社長だ。頭が取れると「あ~」と悲鳴をあげる。

 私は思わずクスッと笑ってしまった。なにこれ。かわいいんだけど。

 そして顔を上げた瞬間、社長と目が合った。

 私の笑顔が固まる。

 ここは冷蔵庫だっけ? 吸い込む空気が冷たい。

 社長は、ソファの上に体を起こし、驚いた顔で私を見ている。右耳の上の髪がぴょんと立って寝癖がついていた。

「お、おはようございます……」

 動揺して、とっさに挨拶をする。

「長尾……」

 社長は自分の髪を再びもしゃもしゃっとかき回すと、大きなあくびをした。

「休みの日に、会社になんか来るなよ」

 そして気だるそうに立ち上がった。

「こっちは、完全に油断してるんだからさ」

 私はなんとか落ち着こうと小さな呼吸を繰り返したが、一向に胸のばくばくは治らない。とりあえず穏便にこの場を乗りきりたいけど、なにをしゃべったらいいのかまったく思いつかなかった。

「申し訳ありません。すぐに失礼します」

 半ば走るように扉へ向かった。

「待てよ」

 社長の手が伸びて、私の左腕を掴んだ。勢いがついていた私の足がもつれ、転びそうになる。その瞬間、社長は掴んでいた私の腕をぐいっと引っ張って支えた。

「あ、ありがとうございます」

 こんなふうに腕を掴まれたのは初めて。社長ってこんなに力が強いんだ。

 社長は逃がさないとでもいうように、ぎゅっと腕を掴んだまま私の顔を見る。

「長尾、車運転できる?」

「車ですか?」

 想定外の問いかけに、思わず聞き返した。

「そうだ。二度も言わせるな」

「す、すみません」

「で?」

「運転、できます」

「じゃあ、ちょっと家まで送ってくれ」

 そこでまた大きなあくびをひとつ。

「眠くて。今運転するのはまずいんだ」

 社長は自分の革靴を手で足もとに寄せると、少し面倒くさそうに靴を履いた。

 いつものピシッとした雰囲気の社長とは違って、のんびりと後片づけを始める。

 社長が準備をしている間に私も秘書室に戻り、パソコンからUSBを抜き取り電源を落とす。バッグを肩にかけマフラーを手にすると、急いで社長室に戻った。

 社長は人形を箱にしまうと、ブルーのパネルを小脇に抱えた。

「それ」

 社長がカメラを顎で指し示す。

「それ、持って」

「はい」

「あと、ジャケットも」

「はい」

 私は慌ててマフラーをバッグに引っかけ、カメラを右手に、ソファの上に投げ出されていたジャケットを左手で持った。

 大荷物を右に左にと持ち替えてヘトヘトになりながら、社長室と秘書室、両方の戸締りをして、数歩前を行く社長の後についてエレベーターへと向かう。

 エレベーターを待つ間も、今にも倒れそうなほど緊張していた。

 いつ、怒鳴られるのか。っていうか、千葉常務へのメールを送信していなかったことがバレるのかな。

 恐る恐る横の社長を見上げると、不思議と冷たい感じがない。いつもはその空気に触れたとたんに凍ってしまうほどピリピリしているのに。


 地下駐車場を歩くと、ペタンペタンという自分のスニーカーの音が響く。社長は疲れているのか、足を引きずるようにして歩いていた。

 いつもは颯爽と歩くのに。平日とのギャップに、どうにもピンとこないな。

 白いドイツ製高級車の前に来ると、社長はポケットからキーを取り出し、解錠した。

「クールな社長の甘く危険な独占愛」を読んでいる人はこの作品も読んでいます