クールな社長の甘く危険な独占愛

颯陽香織

あなたは誰ですか (1)


あなたは誰ですか


 ぐろの大通り沿いに、社宅がある。

 十二階建てマンションの、七階フロアの四部屋が社宅として割りあてられていた。

 私が二年前にこの会社に就職した際、社宅があることに小躍りした。都内のこんなにいい立地のマンションに、信じられないようなリーズナブルな家賃で住める。

 地方出身の私にとって、東京の家賃は暴力的と言ってもいいほど高い。そこで、迷わず社宅に申し込んだのだが、今となればこの決断は失敗と言わざるをえない。

 土曜日の朝七時。

 春の優しい光がグリーンのカーテンの隙間から入り込み、ベッドの上から床へとまっすぐな光の道をつくる。

 私は休日特有のゆったりとした気分で、布団の中で寝返りを打った。

 ずっとこのまま寝てたいなあ。

 しばらくうとうととしていたが、だんだんと目が冴えてくる。

 もしかして、洗濯日和かも?

 ふとそんなことを考えて、このまま寝ているのも勿体ないと思いなおした。

 私は、家具量販店で買ったシンプルなベッドから起き上がると、そっとカーテンを開いてベランダを覗いた。

 いない……よね?

 私は注意深く周囲を確認すると、カーテンを開けてガラス戸を開いた。

 大通りから上がってくる車の音。空は澄みきって、白い雲がところどころ浮いている。

「いい天気」

 私は大きく息を吸って、笑顔を浮かべた。

 いいマンションだと思う。単身用の1LDK。ベランダは広く、デッキ板が敷かれていて、インテリア雑誌に紹介されていてもおかしくないほどおしゃれだ。日あたりはいいし、セキュリティもしっかりしている。

 けれど社宅としては、社員にすこぶる人気がないのだ。四部屋のうち、今は二部屋しか埋まっていない。私の部屋と、その隣の角部屋に社長が入居しているだけなのだ。

 ちらっと隣のベランダを見ると、深くため息をついた。

「社長なんだから、わざわざ社宅に住まなくてもいいのに。どういうこと?」

 私はひとりごちて口を尖らせた。

 入社当時、隣の席に座っていた秘書のまるやまさんに『社宅に入居しました』と言ったら、絶望的だという顔をされた。

『まさに、地獄ね』

 顔面蒼白になりながら、丸山さんは息も絶え絶えにそう告げた。

『リラックスできるはずの自宅で、社長の存在に戦々恐々としなくちゃならないのよ。万が一、エレベーターで一緒になったら? 廊下ですれ違ったら?』

 丸山さんが頭を抱えた。

『恐ろしすぎる……。悪いことは言わないから、お金を貯めたらすぐに社宅を出たほうがいいわ。精神がもたない』

 丸山さんの言っていたことは、正しかったのだ。

 自宅にいても、私は毎日ビクビクしている。今や、いつ引っ越しするか、それしか考えていない。

 秘書という仕事柄、基本的に社長が帰宅するまで私も帰宅できない。それはつまり、一日中社長について回り、やっと解放されて自宅に帰る頃には、社長が隣の部屋にいるということなのだ。

 物音を立ててはならない。廊下に出るときは、いないことを確認してから。友達を呼ぶこともできないし、部屋着でゴミ出しも無理だ。

 私は社長の冷たい目を思い出して、身震いした。

 二年も秘書をしているのに、彼の笑っているところを見たことがない。

 労いの言葉がなくてもいい。ちょっとニコッとしてくれたら、こちらの心も軽くなる。あの顔だもの。笑ったらきっとすっごく魅力的で、みんな幸せになれるのに。

 ベランダの柵に肘をついて、そんなことを考えていると、ふと常務に一件メールを送信し忘れていたことを思い出した。月曜日の役員会議の件だ。

「しまった」

 思わず大きな声が出てしまった。

 社長が依頼したことは、その日のうちに片づけなくてはならない。社長が「今」と言えば、それはどんな理由があろうとも「今」なのだ。

 まずい、叱られる。

 私は瞬間的に部屋へ走り込み、猛スピードで着替えた。

 鏡で自分をちゃんとチェックしている余裕はない。社長にバレたら最後、トラウマになるほどの言葉を投げつけられちゃう。

 私は、慌てて部屋を飛び出した。


 髪をなびかせ、地下鉄の駅の階段を駆け上がる。

 デニムにゆったりとしたブルーの薄手のセーター姿。とりあえず首に巻いたマフラーが冷たい風をかろうじて防いでくれた。

 麻布の朝九時。土曜日だからか、駅前はそれほど混んではいない。

 私は冷えた朝の空気を吸い込んで、歩道を競歩さながらに歩いた。

 大丈夫。今日送信しておけば大丈夫。

 繰り返し自分に言い聞かせる。

 社長にはバレないはず。きっとまだ部屋で寝ているに違いない。メールを送信したら、どこかで時間をつぶそう。あの部屋には極力帰りたくないから。今日は洗濯日和だと思ったけど、この心的ストレスを経験した後ではとてもじゃないけどあの部屋にはいられない。少し解放されたいもの。

 あ、あと……。

 週末だから〝あの人〟に、電話をしなくては。

 私は斜めに下げたショルダーバッグのストラップをぎゅっと握った。


 エレベーターを降りると、しんとしていて平日とは違う空気が漂う。静かな休日の社内。制作部や企画部のフロアには休日といえどもいつも人がいて、昼夜を問わず働いている。でもこの役員フロアには、人っ子ひとりいない。

 ああ、すごい、解放感。いつもは緊張しっぱなしのこのオフィスも、社長がいないってだけで、最高の場所だわ。

 私はポケットからカードキーを取り出し、秘書室に入った。窓からの光だけがほのかに部屋を照らし、隅にある冷蔵庫がブーンと低く唸っている。

 入口脇の電気をつけて自分のデスクに向かうと、パソコンを立ち上げ、引き出しに入っていたUSBメモリを差し込む。

「誰もいないって、すごくいい」

 声に出して言う。

「音楽かけちゃおうかな」

 私はスマホを取り出すと、お気に入りのイギリス人歌手の曲をかけ始めた。普段では絶対にできないことをすると、なんだかウキウキしてくる。

 千葉常務へのメールを作成して、その内容を何度か確認。

「よし」

 勢いよく送信ボタンを押した。

「やったー。終了!」

 椅子に座ったまま、うーんと伸びをする。

 ――カタン。

 その時、微かな物音が聞こえてきた。

 空気は一変、私は腕を上に伸ばしたままの状態で固まった。緊張して、耳を澄ます。

 ――ガタッ。

 また聞こえた。顔から、あっという間に血の気が失せた。

 社長室に、人がいる。

 半ばパニックになりながら、スマホの音楽を消した。それから走って、電気を消しに行き、その場で壁にもたれて息を潜めた。

 なんでいるの? 昨日のスケジュール確認のときはそんなこと言ってなかったのに。今日出社するなんて聞いてない!

 ドキドキする胸に手をあてて、唇を噛む。

 社長は秘書室に人がいることに気づいただろうか。

 私は足音を立てないように、ゆっくりと自分のデスクに戻る。

 パソコンをそっとシャットダウンしようとしたが、USBを抜き忘れていたせいでダイアログが出て「ピッ」と音が鳴ってしまった。

 私は目を閉じて、静かに呼吸を繰り返した。

 きっと社長は、ここに人がいることに気づいてる。今ここで知らんぷりして部屋を出たら、後が怖い。社長に一度挨拶をして、それから退社するのだ。怖くても、嫌でも、それしかない。

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