黒竜女王の婚活

杉井光

1 黒竜王の婚礼(1)


 その夜がほんとうの初夜だった。

 王妃の寝所は暗く、寝台とわずかな調度の他にはなにもない。ひとりきりで王の来訪を待つ間、王妃アンジュは不安でじっとしていられなかった。湯浴みしたばかりの肌が上気し、香草と果実の甘いにおいがいっそう身体を火照らせる。

 いつものように、王はまったく気配もなく部屋に入ってきていた。寝台の軋む音でアンジュは気づき、びくりと身を震わせる。

「怖がっておるのか?」

 王の、からかうような声は――若い女のものだ。

 黒宗国を統べる強大な君主、黒竜王の当代は、その実アンジュと同い年の少女であった。名をシヴァネラという。夜の闇よりなお濃い闇色の髪に、紅がかった光の強い瞳。

 見つめられ、アンジュは気まずそうに唾を飲み込んで顔をそらす。

「……怖いわけじゃない。私だって無事にこういう日を迎えられたのを嬉しく思っている。けれど、その……」

 しばし口ごもり、自分の長い白銀の髪を手ですくって落とす。暗闇の中で髪先が月明かりを含んで繊細な光の筋を引く。

「……もう偽る必要はないのだし、二人きりのときにまで、私がこうして王妃役をする必要はないのでは……」

 種々の香りを贅沢に用いた湯で身を清め、髪を木の実の油でつややかに調え、唇に薄紅をひき、透けるほど薄い上質の衣を着て王を待つのが妃の習いである。

 しかし、アンジュは男なのだ。

 シヴァネラは小首を傾げて言う。

「よいではないか。そなたより美しい女など見たこともないぞ? 妻としては愛おしく誇らしく、女としてはうらやましく小憎たらしい」

「う……いや、そんなことは……」

 シヴァネラが顔を寄せてきたのでアンジュは身を固くする。

「つまり、……こういうことをするときに、自分がどうすればいのか、男としてやるべきなのか、それとも……うぅ……ええと……」

 アンジュの困り果てた様子を見てシヴァネラはくつくつと肩を揺らして笑い、いっそう近づいて身体を密着させてくる。アンジュの全身がかっかと熱くなった。

 そこでふとシヴァネラが眉を寄せてアンジュの顔をのぞき込んでくる。

「そなた、まさか……」

 口調は深刻そうにこわばっている。

「なっ、なんだ」

「女に化けて輿入れするために、……男のものを切り取ってしまったのか? それでそのように焦って――」

「ちっ、ちがうっ!」

 アンジュは真っ赤になって否定する。

 同時に、国を出る前のことを思い出す。いやな記憶だ。できれば思い出したくなかった。

 しかし、ほんの数ヶ月前のことなのだ。信じられない。

 シヴァネラが安心した顔で腕を回してくる。妻の胸に頬を預け、ぬくもりを感じながら、アンジュは追憶の中に浸っていく。

 まだ故国グラシュリンガにいた頃のこと――


 第二王子アンジュの十六歳の誕生日は、国じゅうのだれからも祝われなかった。

 それどころかその日、彼の寝所の隣室には国の重臣たちが集まり、アンジュの男根を切除するかどうかを話し合っていた。

「……たしかに、切除した男は肌艶が増し、声も高くなるな」

「さよう、医官によると男根から男らしさの精が生まれて身体を巡るのだと」

「アンジュ様も御年十六、一見ではあのように乙女にしか見えぬが、お身体のどこかしらに男の兆候が表れてしまっているかもしれぬ」

「しかし切り取った痕が悪化して病になることもあろう。黒竜王との婚儀まであと一月だぞ。アンジュ様に大事があっては困る」

「うむ。他に換えはおらぬ」

「国の存亡がかかっておるのだ」

「存亡がかかっておればこそ、欺くための手はいくらでも打っておくべきでは」

「いやしかし……」

 アンジュは寝台にうずくまって膝に顔を埋め、暗澹たる思いでその評議を聞いていた。

 なぜこんな話し合いをわざわざ隣でやるのか。

 いや、理由はわかっている。自分は一応は王族なので、形式上だけでも評議を聞いて承知していたということにしておかないと体裁が悪いのだろう。そしてまた、『切る』という評決が出た場合すぐに実行するためでもあるにちがいない。

 もとより、国を助けるために死ぬと覚悟した身だ。このうえ焼かれようが斬り刻まれようが変わりはない。

 しかし、とアンジュは自分の下腹に目をやる。

 切り落とす――。

 想像するだけで臓腑がきゅうっと縮こまるのを感じる。

 不意に、扉が乱暴に開かれる音がした。続いて、怒りに満ちた声。

「卿ら! なんという話をしているのだ!」

 椅子の軋みがいくつも重なる。

「こ、これは」

「殿下、いけませぬ、祝儀の最中のはずでは」

 重臣たちのうわずった声が続く。

(兄さま……?)

 アンジュは驚いて寝台から飛び降り、足音を忍ばせて隣室に続く戸に近づき、隙間から様子をうかがった。

 向かい側の大扉がいっぱいに開かれ、白い礼服姿の少年が立っていた。アンジュの双子の兄、第一王子シナンジュだった。しんとした白銀色の髪に映える冷ややかな美貌は、息苦しい熱気の立ちこめていた室内に氷雨が吹き込んできたかのように感じられる。

 シナンジュもまた今日が十六歳の誕生日であり、王宮をあげての盛大な祝儀の主役だった。礼装のままということは儀式の最中に抜け出してここに来たということか。

「アンジュは我が妹だぞ!」

(弟です、兄さま……)

 アンジュはあきれて声に出さずに扉越しに訂正する。

「王家の血に連なる者の身に刃を入れようとは、畏れと恥を知れ!」

「畏れながら、殿下」

 臣下の一人がしどろもどろに言う。

「アンジュ様には、初夜で二人きりになるその瞬間まで、黒竜王を騙し続けなければならぬのです。輿入れの道中、婚儀の最中、宴の間、さらには城内を案内されている間も、男だと絶対に露見してはならぬのです! そのためにはどんな手段も――」

「そんなことはわかっている、黙れ!」

 乱暴な足音が部屋を横切ってこちらに近づいてくるのが聞こえた。聞き耳を立てていたアンジュはあわてて扉から離れる。

 扉が勢いよく開き、伸びてきた手がアンジュの手首をつかんだ。

「――兄さまっ?」

 アンジュは重臣たちのいる広間に引きずり出されてたたらを踏んだ。

「見よ、諸卿!」

 アンジュの手をつかんだままシナンジュが怒鳴る。

「アンジュはただでさえこの私の双子として生まれてもともとが美しいのに、そのうえさらに赤子の頃から花畑の朝露を集めたもので湯浴みをし、白牛の乳と青い桃と楓樹の蜜とで養われ、巫女の舞踊と歌を修め、完璧な美姫として育った! 身体を傷物にする必要などあるものか、だれが男だと見抜けるというのだ! アンジュより美しい女など世界じゅう探してもおるまいにッ!」

「に、兄さま、やめてください」

「これほどの美しさ、この私が妻にしたいくらいだ! 妹でさえなければ」

「弟ですッ」


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