レジェンド・オブ・イシュリーン(サーガフォレスト)

木根楽

The Beggining (1)

 イシュリーンは身震いした。

 暑かった夏が終わったばかりだというのに、秋を一気に通り越し、冬になったかと疑うほどに空気は冷たい。そして、濃く重い霧が包む渓谷は、わずかばかりの先も見通せなかった。

 彼女は、霧の中でも鮮やかな緑玉の瞳を瞼で隠した。整えられた眉は美しい曲線を描き、大きな二重の目は閉じられたままだ。母親譲りの形の良い小鼻は、通った鼻筋と共に絶妙な均衡を主張していて、唇は潤いを湛え、凛と結ばれている。月光のような肌艶を今はやや紅潮させ、瞼を開くと、霧の向こうを睨むように見据えた。

「攻勢は……止まったか?」

 彼女の問いは自らに向けられたもので、すぐに答えを出す。

 ──兵達を休ませるには今しかないか。

 イシュリーンは冑を両手で脱ぎ、銀色の長髪を宙で(きら)めかせると、踵を返して歩き出す。

 女神ヴィラの生まれ変わりと称えられる美しい彼女が、軍の指揮官として戦場にいるのは、もちろん敵と戦っているからだ。

 グラミア王国。

 東西横断公道(シルクロード)と呼ばれる大陸を東西に貫く公道の上にあり、大陸西方諸国の東端に位置するこの国は、東西交易の玄関口として富を得ている。その反面、大国の侵略や、不安定な国内情勢に悩まされ続け、今も西の国境を接する大国、神聖スーザ帝国の侵略に曝され苦しんでいる。この侵略者に同盟国の多くは蹂躙(じゅうりん)され、現在においてグラミア王国の為に援軍を出してくれる国などない。南部国境を接するアラゴラ王国とは同盟関係であるが、その国も、長引く帝国との戦争に疲弊(ひへい)し、他者を助ける余裕などなかった。

 グラミア王国は絶望的な戦いを強いられながらも、地の利を活かして、頑強(がんきょう)に抵抗を続けている。そして、神聖スーザ帝国グラミア方面軍が、占領地であるリュゼに集結し、東進して来るという情報を得て、クローシュ渓谷で迎え撃つべく軍を展開した。

 この渓谷は、北にそびえる山脈から流れ出た幾本もの川が作り出す、自然の要害である。起伏に富み、森は広大であった。

 戦闘開始から、二日が経過している。

 現在、膠着状態なのは、グラミア国軍の勇戦だけが理由ではなく、神聖スーザ帝国軍の慎重さも加味されている。しかし、この敵の用心深さは、グラミア国軍左翼の奮戦が原因であるから、ここは防御側が予想以上に頑張っていると評したほうがいいかもしれない。

 グラミア国軍左翼を指揮するイシュリーンは、銀糸にも似た色合いの長髪を誇るように歩いていた。水滴が付着した彼女の髪は、光の粒子をまとうかのように強く輝き、激しく跳ね揺れることから、彼女の歩みが早いと知ることができる。

 引き締まった四肢を鎖帷子(くさりかたびら)と甲冑で隠し、胸を締め付けるようなそれにも慣れた自分に、彼女は何も思わない。

 王女でありながらも、戦場に立たなければならない理由が彼女にはあった。

 イシュリーンは幼少の頃、王国一の戦上手であるオデッサ伯爵を師として学んだ。彼と別れてからも研鑽(けんさん)を積み、実戦で鍛えられた。彼女は美しいだけの王女ではなく、神聖スーザ帝国軍が慎重にならざるを得ないほどに、軍の指揮をしてみせる娘となっていて、王宮で権力を行使する事のみに長けた異母兄弟達と一線を画している。今回の迎撃場所を王に進言したのは国軍将軍レニアス・ギヴであるが、彼にそれをさせたのは彼女だ。

 これは、イシュリーンが進言しても通らない現実があるからだ。

 王妃の父であり、国務卿でもあるウラム公爵バザールにとって、ウラム公爵家の血が流れていない彼女は邪魔だという理があり、王妃ベアドラにとってイシュリーンは、存在そのものが許せないという感情がある。そしてこの二人が牛耳る王宮は、ウラム公爵家そのものと評しても過ぎたるものではない。

 しかしながら、どんな事情、理由があれども、グラミア王国はここで敗北するわけにはいかない。クローシュ渓谷から東は、平坦な地形が続く王国中央部で、大都市であるベオルードにオルタヴァ、そして王都キアフがある。だからというのもおかしいが、これまで戦場に出てくる事のなかったグラミア王ディスムンド二世が、全軍後方まで出張ってきていた。

 しかし、彼自身は軍兵に姿を見せることなく、王命は全て軍監を通されている。

 父親に会うにも、軍監の許しを得なければならない程度の自分に、自嘲の笑みを浮かべる王女は、それでもここから東には敵を一歩も入れるものかと、悲壮感に駆られて歩を速めた。

 敵の攻勢が止まった今を利用して休む兵達は、それぞれの武器や盾を脇に、束の間の睡眠、わずかばかりの食事、傷の手当てとまとまりはないが、誰もが戦う為に備えていた。悲しいことに、この現実は王の出馬によるものではなく、兵と同じ食事に寝床といった王女の存在に起因する。

 彼女が近くを進み、兵達は改めて崇敬の念を向ける。

「姫様!」

 霧のせいで隠れた数デール(数メートル)先からの声に、イシュリーンは長い(まつ)()を揺らして応えた。彼女の瞳に、長身の男が歩み寄って来るのが映り、王女は彼の名前を声にする。

「ジグルド……」

 青年は立ち止まり一礼した。その青い髪は濃い霧の中でも鮮やかで、同じ色の瞳はどこまでも澄んでいる。

「ジェフリ卿からの伝令です。このまま敵に休む時を与えることなかれ。攻撃命令です」

 ジェフリ卿──ジェフリ・スノーワイトは、ウラム公爵バザールの側近である。彼は軍監として軍中にあり、国軍将軍レニアスの近くで全軍を監理しているが、その権限は王の代理とも言える大きさで、この時と場所だけでいえばイシュリーンをも凌いでいた。

 王女は、秀麗な顔を歪に変化させた。

 彼女にそうさせるだけの伝言をしたジグルドは、視線を濡れた草が泥土を隠す地面へと落とした。グラミア王国最強の剣士で、イシュリーンの副官を長く務める彼は、彼女よりも七歳年上の二十六歳だ。その彼が、軍監からの伝令に怒鳴り返した事実だけを隠して、伏し目がちに説明を始める。

「ジェフリ卿は、優勢な左翼攻勢を全軍に波及させるべく、まずは左翼を敵に突出させ、敵をそれで釣り帝国軍全体の陣形を歪めた後に、中央、右翼によって一気に崩すと仰せです。レニアス閣下も同意しておりますので、これは決定でございましょう」

「レニアスの立てたものであれば信用するが、これはそうではない。そもそも左翼で敵を釣ると言うが、ならば兵の補充が要る。矢、剣、盾も要る。人員の補充はどうして行われない? 補給は? 後方に置かれたままの予備兵力から、いくらかの連隊を回してもらわねば無理だ。ジグルド、ジェフリ卿に会う」

 神聖スーザ帝国軍一万。後方支援をここから差し引いても、戦闘に参加する兵力は八〇〇〇人近くにもなり、大軍である。

 グラミア国軍は六〇〇〇、実際に戦闘への参加は五〇〇〇を下回る。

「レジェンド・オブ・イシュリーン(サーガフォレスト)」を読んでいる人はこの作品も読んでいます