保健室の眠り姫 先生の執着愛と甘美なキス

兎山もなか

2.スリーピング ダーティー (2)

(…………なんでドヤ顔?)

 こちらの視線に気付いた先生は、私の目を見て笑った。意地悪く口角をあげて。なんで見ているのがバレたんだろう? 市野先生はよくわからない。

 よくわからないことばかりだ。


 今日の五限目は選択科目だった。卒倒しがちな私が保健室にいる間に希望調査が行われた選択科目は、私が一番苦手な政治経済に決まっていた。一階のあまり使われていない教室は、隣の校舎の陰になってしまっていて、昼間だというのに少し薄暗い。二十人にも満たない生徒が教科書に視線を落として、先生の話を聞くだけの授業。解説はちっとも頭に入ってこなかった。

 自分でもよくないことだとは思っているけど、世の中のことにまったく興味が持てない。手が届く範囲のことでいっぱいいっぱいだ。

 一階の教室の窓からは中庭が見える。みんな教科書を追っているから、一番後ろの中央の席で、私は堂々とよそ見をすることができた。また移動だろうか? 授業中は人がほとんど通らない中庭で、市野先生とみちる先生が並んで歩いていた。

 私が学校でよく話す先生の2トップ。副担任の市野先生は、さっきまでのワイシャツにジャージ姿をやめて完全にジャージ姿になっている。次の時間が体育だから着替えたのだろう。養護教諭のみちる先生はいつも通りの白衣。生徒たちから〝魔女みたい〟と言われがちなのは、ミステリアスな雰囲気もあるけど美人だからじゃないかな、と思う。うちって綺麗な先生多いよなぁ。香月先生しかり。

 たまに〝みちるちゃん〟って呼んでしまうほど、みちる先生といる時間は多い。私がよく保健室にいるからだし、迷惑をかけているからなんだけど、それはラッキーなことだと思っている。あんなに美しいのに中身は残念なみちるちゃんのことが、私は大好きだ。

 私の大切な二人は、どこへ行くのか談笑しながら中庭を横切って、正門のほうへと歩いていく。そのときの二人の顔は、私が知っている顔とは少し違っていて。まるでお互いが特別みたいに、二人は進行方向を向いたまま自然に笑っていた。


 二人はデキてるのかな。

 でもそれなら、どうして市野先生は今日、私にあんな……。


 あの真っ赤な舌を思い出す。目を覚ました瞬間、ぼやける視界で間近にあった先生の顔は、口を開いて私を食べようとしていた。ただ私が寝ぼけていたのかな? とも思った。だから確かめたくて、率直にキスしようとしたか訊いてみたのだ。そしたら引き当ててしまった。先生は、嘘をつくとき、必ず目をそらす。先生の嘘は必ず見抜ける。

 ちゃんと目を見て「馬鹿だねぇ、そんなことするわけないじゃん」くらい言って茶化してくれれば「すみません馬鹿でしたぁー」って言えたんですよ、先生? ドヤ顔してる場合じゃないんですよあなた。みちるちゃんといちゃついてる場合でもないです。なに生徒にキスなんてしちゃってんの?

 そんなことばかり頭の中でぐるぐる考えていたから、私は今日も世間を知らずに一日の授業を終えていく。


 本日最後の授業は体育。六限目の体育は憂鬱だ。ただでさえ着替えが面倒なのに、それが六限目なんて。ホームルームが始まるのも遅れるし、そんな日に小テストなんて言われると、残りライフは一気にゼロまで削られる。

 何より、致命的に体操服やジャージが似合わないのだ。これは私に限った話。自分でも驚くほど似合わない。保健室の常連だし、運動も苦手だし。そんな私が体操服を着てもなんだかただのコスプレみたい。だから体育は憂鬱なのだ。

 腕まくりをして障害物走のハードルを運んでいた。途中、ちらりと男子の体育を盗み見る。男子は棒高跳びらしい。くるくる。ひらひら。クラスメイトたちは器用に身を翻して軽々とバーを越えて行く。

「いっちー! 四・五メートル跳んで!」

「えー」

 男子がクラスメイトに言うノリで市野先生にふっかける。

 いっちー。三年生できちんと彼のことを「市野先生」なんて呼ぶのは、クラスのおとなしい眼鏡女子くらいで、みんな先生のことを「いっちー」と呼んだ。

 リクエストされた先生は「仕方ないなぁ」と言いながら、顔が乗り気だ。青いジャージがひしめくなかで、見慣れた黒のジャージはとても目立った。先生を見ていたわけではなくて、ただ黒が目立つものだからつい目につくのだ。

 その目立つ黒のジャージを脱いで、先生はティーシャツ姿になった。──美しい体が露わになる。普段はワイシャツとジャージの下に隠されている体。細いのに、しっかり鍛えられている体は引き締まっていて目に眩しい。女子も合同の体育だったら、みんながもてはやしただろう。

 先生はリクエスト通り四・五メートルを飛ぼうとその場でストレッチをしている。乗せられちゃって馬鹿みたい。男女問わず、生徒の前では良い格好しぃで馬鹿みたい。期待の目を向けられて少し照れている顔に、なぜだかきゅっと胸を絞られた。

 先生が助走を始める。歩数を気にしながら、勢いをつける。

(……失敗しろっ)

 陰気に負の念を送った。

 そしたら、ガシャンと音をたてて先生はバーに激突して、勢いよく奥のクッションに転がった。──しまった、と思うと同時に私は駆け出しそうになる。

 でも、私が行ってどうする? 授業を受けていた男子生徒達が慌てた声をあげて「いっちー大丈夫か!」と先生を取り囲む。その中に女子が一人走っていくのは明らかに変だ。でも。

 重たいハードルを抱えたまま、しばらくその場に立ち尽くしていると、市野先生は失敗を気恥ずかしそうにしながら起き上がった。「いっちー、だせぇー」と男子生徒たちに笑われて、「うるせぇ」と、自分も男子生徒のように屈託なく笑っている。その様子を見ると特に怪我はないようだ。……よかった。

 失敗しろなんて念じておいて、心の底からほっとして、うっかり泣きそうになっている。

「糸島さーん」

 クラスメイトが遠くから私を呼んだ。その声のほうにまっすぐ返事をする。

「ごめん、すぐ行く!」

 ちょっと男子のほうばかり見すぎてしまった。私の名前を呼んだクラスメイトの顔は、何か物言いたげにニヤニヤ笑っている。あの男子の群れの中に、好きな人でもいると思われたのかなぁ。違うのに。

 なんて弁解しようと思案しつつ、ハードルを二つ脇に抱えなおして一歩踏み出した。その時に。

「あ」

 くらっと視界が白んで、立っていられなくなる。

 卒倒。ガシャン、とハードルを取り落とした。失われる平衡感覚。


 ──ああ、だめだ。

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