保健室の眠り姫 先生の執着愛と甘美なキス

兎山もなか

1.プロローグ 保健室の秘密 / 2.スリーピング ダーティー (1)

1.プロローグ 保健室の秘密



 眠っていればたいていのことはやりすごせる。見たくないものも聞きたくないことも、目が覚める頃にはすべて過ぎていた。いつもそうだった。だから眠るのは好きだ。みんなが教室で授業を受けている中、ふかふかの布団で睡眠を貪るのは最高の贅沢。

 ふと人が傍にいる気配がして、うっすらと目を開ける。

「……こら、いとしま。いい加減起きろ」

 見慣れた副担任が不機嫌な顔で私を見下ろしていた。少し伸びた前髪の下の切れ長な目。すっと通った鼻筋。閉じられた形の良い唇。うっかり甘えるように手を伸ばしてしまいそうになる。先生相手にそんなこと、許されるはずがないのに。

「糸島」

 私を呼ぶ声に、ゆっくりと覚醒する。先生はまだ私の顔を見ている。制服のスカートが皺になっていないか気にしながら、まだ布団からは出ない。

「……何時ですか? いま」

「十一時過ぎ。もう四限が始まる。さすがに寝すぎだろー」

「四限……ってなんだったっけ」

「現国」

「現国かぁ……」

「……おい待て。寝なおすな。現国って聞いた瞬間やる気をなくすな!」

「だってづき先生の音読嫌いなんだもん」

「それくらい我慢しろっ」

「ひゃっ」

 無理矢理布団をひっぺがされる。先生に掴みあげられてふわりと掛布団が舞う。布団の中でスカートが捲れあがってたらどうしてくれるの!と思ったけど、きっとどうもしない。先生はたぶん悪いとも思わない。私のクラスの副担任であり、体育の先生でもあるいちひさ先生はそういう人だ。

「まったく……。俺が高校生のときだってもうちょっと真面目に授業出てたわ」

「それっていつの話?」

「……七年前?」

 七年前か。それはそのまま、私と先生の歳の差になる。ちらりと先生の顔を見ても、七つも年上だとはやっぱり思えなかった。先生は高校生のときから顔があまり変わっていないらしい。

「市野先生、授業は?」

「俺は次の時間はフリーだよ」

「いいなぁ」

「いいだろ? 大人だからな!」

 先生は私が高校に入学したときに先生になった。この高校で過ごすのは私と同じ三年目。そう思うと特に大人という感じもしなくて、自然と気安くなる。

「みちる先生は?」

「来客。お前を布団から引きずりだせって頼まれたんだよ」

「えー、みちるちゃんひどい……」

「糸島がただのサボりって思われないようにだろ。その様子だともう眩暈は大丈夫そうだな」

「そうですね……」

 私、糸島うたはひどい貧血持ちだ。

 朝に弱く、少しの運動で息を切らす。よく貧血を起こし、所構わず倒れては保健室にお世話になっている、卒倒のエキスパートである。頻度が高すぎて、クラスメイトからは演技なんじゃないかと疑われている。

 こんな風に市野先生に様子を見に来られるのも、珍しいことじゃない。だけど。

「大丈夫ならちゃんと出ろよ、四限」

「はーい」

「じゃあ、俺は戻るから」

「うん……先生」

 何?と振り返った先生は、もう不機嫌な顔をしていなかった。怒っていたところで、若いし顔が優しいから全然怖くない。振り返ったその顔は大人のくせにあどけなくて、女子に人気があるというのもまぁ、わかる話で。

 その顔に私は問いかけた。

「さっき、キスしようとした?」

 人の気配に目を覚ましたとき、最初に見えたのは真っ赤な舌だった。

 先生は無視して扉まで歩いていって、私に背中を向けたまま言う。

「そんなわけないだろ」

 それで、部屋を出て行ってしまった。



 保健室には秘密がある。


〝保健室のベッドで眠ると、自分が知らないうちに記憶が一個抜け落ちる。〟


 そんな学校の七不思議みたいなこと、高校生になっても噂になるんだなぁと冷めた気持ちで聞いていた。

 それが本当なら、私の記憶は大変なことになる。数え切れないほどの睡眠をここで貪っている私は、記憶をぼろぼろとこぼしまくっているはずだ。今のところ、私だけが何かを忘れていて支障が出るということは起きていない。私の記憶は無事です。

 噂の理由は大方想像がつく。たまに運動部の部員が、頭を打ってここに運ばれてくる。そのとき稀に、生徒が軽い脳震盪で一時的に記憶をなくすことがある。保健室の滞在時間が長い私はこれまでに何回か、そんな場面に出くわしたことがあった。

 どこかのメルヘンな思考の持ち主が、それを脚色して噂にしたに違いない。


 保健室で一つだけ抜け落ちる記憶。

 何を忘れたのかも忘れてしまう魔法。


 都合のいいファンタジーが、私はそんなに嫌いじゃない。

2.スリーピング ダーティー



 香月先生の音読は本当にひどい。

 四限目の現国の時間、できるものなら耳栓をしていたかった。香月先生の声は鼻にかかりすぎていて、聞いているとこっちが息苦しくなってしまう。

 加えてファッションセンスが最悪だ。先生の胸の上で、見たことのない熊か犬かわからないキャラクターがぺろりと舌を出している。ショッピングモールに行けば何着と服がディスプレイされている中で、なぜそれを選んだのか? 小一時間ほど問い詰めたい。

(あ)

 またひどい鼻濁音。美人なのに勿体無い。

 鼻にかかった声も、最悪のファッションセンスさえも一瞬霞むほど、香月先生は美人だ。年齢は確か、三十になるかならないか。スタイルがよくって、すっとした目鼻立ち。気の強そうな眉。容姿だけならあんな大人になりたいと思う。だけど声は大事。七難隠すのは色白じゃなくて声色です。

 視覚よりも聴覚のほうが強烈にひっぱられる。四限目の終わりを告げるチャイムが鳴る。それに比べたら微々たる音量だけど、私の耳は確実にその声を捉えた。頬杖をついたまま何気無く廊下を見る。

 見慣れたワイシャツにネクタイ、その上に黒のジャージを羽織った姿が教室の前を通った。最初は教室後方のドアの窓からちらりと見えて、次の瞬間には、大窓越しに上半身が全部見えた。

 市野先生の声は、静かによく響く。矛盾しているようだけど、私の中ではよく響く。「からかうなよ」と笑う声。「すげーじゃん」と褒める、笑う、挨拶をする。先生の声に反応してしまうことに、特別な意味はない。

 教室の前を過ぎていく市野先生をただぼーっと眺めていた。先生は体育準備室から食堂に移動するだけだというのに、数人の生徒に囲まれている。人気者はよろしいですなぁ。学年一の美少女も化粧と髪型を全力で盛って、先生の腕に絡みつくようにして挑んでいる。

 ぼんやり眺めていたら、目が合った。

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