魔王の娘と白鳥の騎士

天ヶ森雀

第一話  魔王の策略 (3)

 あれを毎晩眺めながら眠れたらどんなに素敵だろう。うっとりしちゃう。

「商談成立だな」

 にやりと笑った、お父様の口髭が嬉しそうに揺れる。

「ただし──」

 私はひとつだけ条件を出す。

「作戦実行中はすべてこのオディールに任せ、覗かないとお約束くださいませ」

「あ? う、うむ。それは構わんが……なにゆえそのようなことを?」

「あら、だって。お父様に見られているかもしれないと思うと気が散りますもの」

 気も散るし変に緊張しそう。

 もちろん自分でも結界を張るつもりだけど、ここは言質をとっておきたい。

「それに変身しているとはいえ、オデットの姿の私とその騎士とやらの甘い場面なんてお父様もご覧にはなりたくはありますまい」

 これにはお父様も思い当たる節があったらしい。喉の奥でむぅと変な声を出す。

「……分かった。それではおとなしくお前の報告を待つとしよう」

 そうそう。下手に覗かれて手出しされたらうまくいくものもいかなくなっちゃう。

 父の返事に私はにんまり笑って、頭の中で作戦の算段を始めた。


 もちろん。

 断るべきだったのだ。

 たとえ報酬があの奇蹟のオパールでも。それ以上に素晴らしい貴重なフローライトやタンザナイトを鼻先にぶらさげられたとしても。





 真鍮の縁飾りが付いた大きな姿見の前で、へんの術をかけた自分の全身を隈なくチェックしながら、私は背後に控えていたアンドリューに問いかける。

「こんなんでどうかしら、アンドリュー?」

「お見事です、オディール様。オデット様に生き写しですよ!」

「んっふー、でっしょお!」

 元々は黒い髪を金髪に変え、瞳の色も黒から濃紺色に変色させる。背格好は元々似てるからあまり手を入れる必要はなかった。多少胸を盛ったくらい? 多少よ、多少!

 ドレスは淡いブルーの清楚系だけど、コルセットで持ち上げて胸の谷間をチラ見せするのも忘れない。華奢なネックレスとお揃いのイヤリングは、菫をモチーフにした小さなサファイヤだった。

 うん、チャームレベル五割増しってとこかしら。

 あとは表情と喋り方。まあ、その辺はどうとでもなるでしょ。これでも一応魔王の娘だし。

「じゃあ行ってくるわね、アンドリュー。留守を頼んだわよ」

「畏まりました。上々の首尾をお祈り申し上げます」

 アンドリューのお辞儀を横目に、私は移動呪文を唱える。体の周りに淡い光がきらきらと弾け、全身の輪郭がぼやけてきた。

 今夜は湖に通じる道の結界をわざと解いてある。

 オデットに言い寄るその男が湖に着く前に、待ち伏せして彼を捕らえるのだ。





 湖に通じる森の一本道は、下限の半月に照らされて煌々と明るかった。

 私はわざと木陰に隠れ、俯いて人の気配が近付くのを待つ。

 さくさくと枯れ葉を踏む音がする。人の足より数が多い。馬に乗っているのだろう。

 私は木陰からそっと足を踏み出す。

「……オデット?」

 問いかけるように呼ばれて、私はゆっくりと顔を上げた。

 あのオデットに言い寄るなんて、どんな男なのか好奇心が逸る。でもここは優雅に焦らず。今、私はオデットなんだから。

 馬上にある、騎士姿の美しい若者の顔がゆっくりと視界に入ってきた。

 ──―ずっきゅーーーん。

 ………え?

 聞こえる筈のない音が心臓のど真ん中で響く。

 何これ?

 まるで鋭い矢で心臓を打ち抜かれたような錯覚に、私は慌てて胸の辺りを抑えた。

 当たり前だけど、胸には矢なんて刺さってないし血も流れてはいない。それなのにどくどくと心臓が早鐘を打って、耳にうるさいくらいに響く。何なのよこれ!?

「ジークフリート、さま……?」

 かろうじて彼の名を呼んだ声が震えていた。おかしいわ。なんでこんな風になっちゃうの?

 けれど彼は私がその名を呼んだことで安心したらしく、とても嬉しそうににっこり微笑んだ。

「よかった。あの夜に出会った貴女があまりに美しすぎて……月光が見せた幻だったのではないかと、少し不安だったのです。またお会いできて本当によかった」

 彼ははにかんだ笑顔でそう言うと、馬からひらりと飛び降りて私の前に駆け寄ってきた。

 やだ、こないで。

 私は思わず顔を伏せてしまう。

 ばくばくばくばくばく。

 相変わらず鼓動は高速で脈打っている。

「どうかしましたか? お顔が赤いようだが…どこか具合が悪いのでは」

「いえ、あの……、何でもありません」

 否定する言葉はやはり蚊の鳴くような弱々しい声だった。おかしい。

 彼、ジークフリートの顔を見た時からうまく思考ができない。私の理性や知性がちりぢりに砕け散り、どこかへ飛び去ったという、不可解な状態に陥っている。

 もしかして彼も実は魔族とか? 知らないうちに何かの術をかけられた?

 もしそうだったとしても、対処する方法を思いつかないぐらいに私は混乱していた。

 柔かそうな焦げ茶色の髪。通った鼻梁と優しげな瞳。肉付きの薄い鋭角的シャープな輪郭と薄い唇。あの唇に触れたら…どんな感触がするのかしら。

 ジークフリートは美しい男だった。

 ……ううん、なんていうか美しいだけじゃなくて、高貴で冴え冴えとした雰囲気を持つ男だった。彼の顔を見たのは一瞬だけで、その後ずっと俯いてしまった筈なのに、なぜか彼の顔がくっきりまぶたに焼き付いてしまっている。

 話しかけられたたった二言三言の声は、耳にこびりついて何度もリピートされるほどいい声だった。深みのある、ベルベットのように艶を帯びた声だ。

「それならどうか、お顔を見せて下さい。お見せ頂けなければ私の心臓は心配で潰れてしまいそうです」

 少し悲しげな声に、私はおそるおそる顔を上げる。その途端、ホッとしたように微笑む彼の顔が目の前にあった。

 どどどどどどどどどどどど……!

 心臓が早鐘どころじゃなく連打を初めて、息ができなくなりそうになる。苦しくて目尻に涙が溜まってしまった。本当にどうしたというの私は!

 逃げ出したい衝動に駆られて必死に思い止まる。まだ何もしていないのに、このまま城に帰るわけにはいかない。そう思って溢れそうになる涙を堪えて彼を見つめる。けれど言葉を発することも身動みじろぎ一つもできない私に、彼は再び悲痛な顔になった。

 沈黙に支配されたまま、私たちは暫し見つめあう。彼は困惑しているように見えた。でも私だってどうしていいか分からない。私は一体どうなっちゃったの?

 彼、ジークフリートは、何か言おうと何度か口を開けてはまた閉じてしまう。彼も何を言えばよいのかわからないのだろう。おかしな磁力が生じている。全身の細胞が、彼に向かって引き寄せられているような。

 私を見つめる焦げ茶色の目が僅かに揺れた。

「何があったか分かりませんが、そんな顔をしないで下さい。でないと私は……」

 ジークフリートは切なげな瞳をしてそう言ったかと思うと、目にも留まらぬ速さで私の体を抱き締めていた。

 うそ。

 広い肩幅と厚い胸板。私の体をすっぽり包み込んだ腕は大きくて、鍛えられた筋肉の固さが服越しにも伝わってくる。

 うそうそうそ! どうなってるの? なんでいきなりこんなことになってるの!?

 こんな風に誰かに抱き締められたことなんて今までなかった。せいぜい幼い頃、母に抱擁されたくらいだろうか。他人の、しかも人間の男性に抱き締められるなんて生まれて初めてだ。

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