婚約破棄が目標です!

夏目みや

プロローグ




プロローグ


 セレンスティア様……。


 おぼろげな意識の中、誰かに呼ばれている気がする。

 うっすらと瞳を開けると、見覚えのない場所。凝った造りの模様がついている高い天井は、私の暮らしていた六畳一間のアパートとは違う。

 そろそろ起きなくては……バイト……行かないと遅刻しちゃう。

 そもそも今は何時? そして何曜日だっけ……?

 ズキンと鈍く痛む頭を押さえつつ、上半身を起こした。

「お気づきになられましたか!? お嬢様」

 その時、甲高い女性の声が耳に入り、驚いて顔を向ける。そこにいた人物を見て、私はギョッとして顔をしかめた。

 まるで映画の中でしか見たことがないような、メイド服を着た女性が近寄ってきたからだ。

 おまけに涙ぐんでいる。

「ああ、良かったです、お嬢様!!

 私の手を取る女性に困惑していると、さらに頭がズキリと痛んだ。顔をしかめたことに女性は気づいたようで、焦った声を出す。

「まずは横になられて下さい!! お嬢様!!

 お嬢様って、誰のことを言っているの?

 静かに考え込んだ。女性は私の手を取り懇願してくるが、彼女の口から紡ぎ出される言葉は、明らかに日本語とは違う。耳に入ってくるその言葉を、なぜ私は理解できるのだろう。茶色の髪を一つにまとめ、空色の瞳を私に向けてくる彼女は、外国人なの?

 不思議に思い、部屋の中をぐるっと見渡した。

「大丈夫よ、モニカ」

 その時、自然と口から出た言葉に驚いた。

 そうだ、彼女はモニカ。長年仕えてくれていて、年齢は二十歳、私のことをよく理解してくれている、とても頼りになる存在。

 頭に浮かんだ記憶を不思議に思いながらも、さらに周囲を見渡した。

 私が寝かされているのは広いベッド、部屋に設置されているのは豪華な調度品。部屋の広さは、六畳なんかじゃない。私の愛用していた家具が、一つもない。

 ドレッサーやテーブルなどもアンティーク調で歴史を感じさせる。だが長年、大切に使っているのだと感じた。冬に使用する暖炉まであり、広い出窓の外では小鳥がさえずっていた。

 周囲を見渡しても、どう見ても異国、といった感じだ。

 そしてゆっくりと顔を横に向けると、その先にあった鏡の大きさに驚いた。これなら人が三人ぐらい映りそう。モニカも映っていた。私はその鏡に映っていたもう一人の女性の姿を見て、驚いて瞬きを繰り返した。

 だってそこに映っていたのは、長い栗色のストレートな髪、薄い青い瞳。そしてシミ一つない透明感のある肌に、ふっくらした赤い唇。今まで目にしたことがないぐらいのはかなげな美女がそこにいて、私を見つめていた。

 しばらく鏡の中の人物に見惚れていると、おかしな点に気づいた。

 私の手を握るモニカは今、鏡に映っている。じゃあ、あの美女は誰……?

 少し首を傾げると、鏡の中の女性も不思議そうに首を傾げた。あれ? 以心伝心?

 初めまして、こんにちは。

 思わず顔をほころばせると、鏡の中の女性も微笑する。

「…………」

 なんだか不思議に思い、モニカに掴まれていない手を、上にあげてみた。

 その時、鏡の中の女性が、私と同じ動きをすることに気づいた。

「え……」

 声を上げて見れば、手を握っていたモニカが、声をかけてくる。

「どうかなされましたか?」

 そこで思わず立ち上がり、鏡に向かって駆け寄った。

 頬に触れ、自身の手で感触を確かめると、鏡の中の女性もまた、驚いた顔で自身の頬を撫で回していた。

「ああ、お嬢様、大丈夫です。少しの時間気を失いましたけれど、お嬢様の美しい肌には、傷一つありません」

 そこまで言われて、やっと気づいた。

 鏡に映るこの美女は、私だと……!!

「えええええええええっ

 思いっきり間抜けな声を上げた私を、モニカはすごく驚いた表情をして見つめた。そしてすぐさま声をかけてきた。

「ど、どうなされました!? セレンスティア様!?

 セレンスティア!? 誰だ、それは!?

 記憶もおぼろげだが──。

 私の名前はもっと堅い、和風の──そう、だ! たけもと千沙!!

 六畳一間のアパートで暮らす、貧乏苦学生の二十歳!! さっきまで居酒屋で、バイト仲間とお酒を飲んでいたはず!

 そして帰り道、ほろ酔い気分の私が歩いていると、大きなトラックが暴走してきて──。

 あれ、私……。

 そこから先の記憶がない。いや、記憶にあるのは救急車のサイレン。

 ………………。

 もしかして私、死んじゃったの!?

「マジかっ

 その可能性が脳裏に浮かぶと、思わず天を仰いだ。

 そう、私の命はそこで終わっていた。苦しむことなく、あっさりしたものだったけど、そこで寿命が尽きていた。

「うぉぉぉっ!!

 途端に悲しくなってきた。

 泣くに泣けない最後の状況だったから(死んでしまったのだから当たり前)、今さらだけど自分のために泣いてやる。

 いきなり大量の涙と鼻水を噴出させた私。おまけに汚い嗚咽混じりときた。

 側で見ているモニカはドン引き。

 そして私は思い出した。

 今の私はセレンスティア。

 この、代々続くフェンデル侯爵家の長女として生まれて、年齢は十八歳。

 様々な想いが交差する、千沙とセレンスティア。どっちが私で、どっちが本物?

 これは前世の記憶が蘇ってしまったパターンだろうか。そんなこと、あるわけないとツッコミたいけれど、現にそうだと確信できるのだから笑えない。

 ここで私はセレンスティアとして、十八年間生きてきたのだ。

 混乱で思考が乱れる中、落ち着きを取り戻そうと、深呼吸する。

 私の名はセレンスティア。そして側にいる彼女は私専属の侍女のモニカ。

 だけど今は、千沙として日本で生活していた記憶の方が強い。それは思い出したばかりだから?

 千沙としての日々は、真面目にコツコツやってきて、地味で倹約家だった。けれど、こうもあっさり人生終わらせるなんて、浮かばれないよ。どうせ儚い人生なら、太く短く生きたかった。

 なのに私ってば、細く短い人生だった。欲しい物も我慢して、無駄に節約なんてして、贅沢することなく死んじゃうなんて損したよ!

 こんなにあっさり生まれ変わるのなら、アパートのタンスの上の五百円玉貯金、使い果たせば良かった。いくら集まったのか、いまだに未練がある。

 それに何より、恋の一つもする暇がなかった。おしゃれだって、お金がかかると思って無縁の生活だった。

 だけどここで、記憶が戻った。私は私。セレンスティアであると同時に、千沙の記憶もある。

 そこで大きく息を吸い込んだ。

 これからの人生、好きに生きてやる! 思う存分生きてやる! 恋だってして、今ある生を楽しもう!

 そう固く、心に誓ったのだった。

「婚約破棄が目標です!」を読んでいる人はこの作品も読んでいます