君にそばにいて欲しい

井上美珠

君にそばにいて欲しい (1)


 どこかで嗅いだ事のある匂いだった。それはいい匂いで、思わず蝶のように近づきたくなる匂い。けれど人工的で、自然にはありえないような、そんな感じがした。

 その匂いに鼻を寄せると、不意に肩が温かくなる。体が柔らかなものと、重いものに包まれた感じがして、こっそり薄目を開ける。ああ、人の肌だ、と思った。

 次の瞬間、人の肌? と思い、パッチリと目が覚める。

「え……?」

 柔らかなものは、肩にかけられた毛布。重いものは男の人の長い腕だった。見知らぬ天井と、見知らぬベッド。天井の具合から見ても、ラブホテルでない事は確かで、誰かの自宅だとわかる。目の前には綺麗な鎖骨が見える。長い腕に肩を抱かれ、まるで愛しい人を抱きしめているかのようだった。たぶん一晩中、このように肩を抱かれて眠っていたのだろう。長い腕から少しだけ抜け出すと、よく知っている顔が目の前にあった。

いっしき部長!?

 いちは見知った顔に驚く。隣に眠っていたのは、上司、一色あおいだった。珍しい名前なのでフルネームで覚えている。しかも、平社員の由良には手の届かない存在で、相手にされない存在。

 カッコイイ男、優しい男、高学歴、高身長、高収入の男。一色は社内でもかなり女性人気が高い人。目鼻立ちが整っているのはもちろんの事。笑みを浮かべると優しい顔になり、普通にしている顔はクールでストイックそうな端整な人になる。由良は、笑みを浮かべた顔が好きなのだが、社員のほとんどはクールな彼がしびれるくらいカッコイイ、と言う。

 また、モテかたが半端じゃないため、今年のバレンタインチョコは机の上に置いてあるものはすべて丁重に返却し、直接持って来た女性社員へは、礼を言いながらすべて断っていた。

 由良も今年はチョコを一色の机の上に置いたが、多分夜遅くこっそり置いたからだろう。また、誰からのチョコかわからなかったのもあると思うが、返されずに済んでホッとしていた。朝にはデスクの上からなくなっていたのだ。

『たくさんもらうけど、いつも食べきれないんです。誰かに食べて貰うのは駄目だと思うので。だから申し訳ないが、今年はいりません』

 それに対し、ブーイングも起こったが、我関せずのスタイルは、いっそ気持ちよかったほどだ。あとから、確かにそうだよね、と納得する社員が多く、特に男性社員の一色への支持率を上げた。

 温かい一色の腕は、由良の身体からだをしっかりとホールドしていた。少し重くて、思わず強引に抜け出すと、下半身が痛かった。足の関節も痛いが、一番痛みを感じたのは、身体の中心のあらぬ部分。

「い、痛い……」

 そうして、実際に昨夜というか今日は、痛さに涙が出そうだった覚えがある。痛みを必死で耐えたのを覚えていて、その痛みがなぜかという事を思い出すと、顔が熱くなってしまう。由良は全部覚えていた。一色が隣に寝ている理由も、あらぬ所が痛い理由も。

 一色が目を覚ます。左目を開けて、右目を開ける。そして小さく伸びをすると、茶色の目で由良を見た。

「おはよう」

 いつもと同じ、低めの声で挨拶をされた。その声音は冷静だった。

 起きた相手をまじまじと見る。相手は裸、自分も裸。由良は手近にあった布団を引き寄せ、自分の魅力のない身体を隠す。

 そうして裸の一色は、手探りでサイドチェストの上にある眼鏡を探し、耳にかけた。普段は柔らかくセットされた前髪が下りて、いつもより若く見える。眼鏡をかけた相手はまぎれもない上司の一色で、由良は裸のまま緊張した。平社員の由良はあまり話した事がないし、ほとんど話しかけられない。一部の平社員が、一色と話しているのを見かけるが、由良はどちらかというと大人しい方で、上司になど自ら話しかけられなかった。

「おはようございます」

 由良が挨拶をしたあと、上半身を起こす一色の胸は、意外と厚かった。おまけに腹も出ていないどころか、やや筋肉質。腕もほどよい筋肉がついていて、細身に見えるスーツ姿からは想像がつかなかった。いつもきっちりとネクタイを締める首から顎のラインも綺麗で、由良は目をそらすしかない。

 こんなにスタイルが良かったのか、と思ってドキドキしてしまう。

「市木さん、これから深酒はよした方がいいですよ」

 昨日は金曜、送別会というものをするにはちょうどいい週末だった。短い期間だったが、課長だった人が異動するため、会を開いたのだ。

 昨夜から今日にかけての事を思い出すと、顔から火が出そうだ。一色はまったく悪くない。悪いのは自分だ。由良が酒で潰れて、方向が一緒だから、とタクシーに一緒に乗った。そのあと車に揺られて眠ってしまって、目が覚めたら一色の家だった。どんなに揺さぶっても起きなかったらしく、ソファーに座っていた。十一時半だから泊まっていきなさい、と言われた。

「身体は平気ですか?」

「だ……大丈夫です」

 由良の言葉にフッと笑って、顔をのぞき込む。

「泣きそうだったくせに?」

 由良はさらに顔が熱くなる。きっと赤くなっているだろう。

 そんな由良の頬を大きく温かい手がで、唇に音を立てて軽くキスをした。昨夜というか今日は、もっとすごい事をしたのだが、素面しらふでキスなんか、と片手で顔を覆った。

 そんな由良を見たあと、またかすかに笑った気配。一色は小さく伸びをすると、ベッドから下りる。由良は目のやり場に困って、視線をそらした。惜しげもなく裸のまま立つから、いやおうなく全身が見えた。後ろ姿だけれども。

 服を身に着ける音がして、昨夜着ていたアンクルカットパンツだけはいた長身がふすまの向こうに消えた。

 どう見ても、一軒家のたたずまいの家。やや大きめのベッドが置いてあるが、下は畳だ。

 由良は自分の服を探した。すると、昨日の服は上着からスカートまで、きっちりハンガーにかけてある。カーテンレールにかけてあり、服を取るかどうか迷った。一色がかけたのだろう。本当に申し訳なく思う。上司に平社員がこんな事をさせてしまっているからだ。周りを見れば、一色の部屋は本当に綺麗だった。

 スーツ着用の義務はないが、それに準ずる格好を由良は心がけている。スーツを着ているのは、男性社員くらいだ。もちろんスーツ着用義務は男性もないのだが。

 やっぱり服を取りに行こうと、ベッドから下りようとしたところで、きちんと服を着た一色が戻って来て柔らかなバスローブを、由良の肩にかけてくれた。

「シャワーは先に譲りますよ。湯船に入る人?」

「はい」

「よかった、今めてるから」

 由良はバスローブを身に着けると、下着がない事に気付く。ごそごそと探すが、ないようだ。

「何してるんです」

「いや、あの。下着がないんです」

 どんなに探してもなかった。すると一色は、ああ、と言って親指で後ろを指す。

「今、洗濯中です。もうすぐ乾きますよ」

「え? どうしてですか?」

 いつ洗濯機を回したのだろう、と思う。もしかしたら一度起きて、またベッドに戻って来たのだろうか?

 どうしてって、と言いにくそうにして、首に手をやる。そのまま視線を合わせず、理由を言った。

「セックスの時、汚れたからですよ」

 聞くんじゃなかった、と由良は思った。そして、昨日の事を思い出す。

「……そうですか、すみません。えっと、じゃあ、ないんですね。今は」

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