いじわる殿下は花嫁を逃がさない~ツンデレ溺愛王子の甘すぎる罠~

芹名りせ

第一章 (1)


   第一章


 夜の闇に沈む広廊下の絨毯(じゅうたん)に、ぶ厚い樫材(かしざい)の扉の隙間から、(まばゆ)い光の筋が伸びる。
 扉の向こうからは軽やかな笑い声も()れ聞こえてきて、その前に立つ(つや)やかな黒髪の娘──ルージェナは、指先の冷たくなった手で、ドレスの膨らみをぎゅっと握り直した。
(よしっ。行くわよ)
 己を奮い立たせるかのごとく、心の中で勇ましい声を上げる理由は、もうかなり長い時間、この場から一歩も踏み出せず、棒を呑んだように立ち(すく)んでしまっているからだ。心臓の音もまったく落ち着かず、どきどきと壊れそうに鳴り続けている。
(大丈夫よ。今夜こそ……)
 何度も自分に言い聞かせずにはいられない原因を作っている人物の、いかにも楽しげな声が、また扉の向こうから聞こえてきた。
「お()めに(あずか)り光栄です。でも私などより、今宵はマルティナ嬢のほうが数倍もお綺麗ですよ」
 よく晴れた青空にすーっと吸いこまれていくような、軽やかで甘く、澄んだ声──その声で名前を呼ばれたらしい女性の歓喜の悲鳴と、それをうらやむ複数の叫びが、扉の向こうで交錯する。
「そ、そんなことございませんわ! エリアス殿下ほどお美しい殿方を、私、他に見たことはございませんもの!」
「そうですわ! このレスニツア王国で一番……いいえ、近隣諸国でも、絶対に一番の(うるわ)しさですわ!」
「そうよ! そうよ!」
 幾人もの女性から賛美の言葉を(ささ)げられ、彼──エリアスが今いったいどういう表情をしたのか、ルージェナは実際に目の当たりにしなくとも、蒼い瞳を(おお)(まぶた)の裏に、ありありと思い浮かべることができた。
(きっと……あの夜明け前の空によく似た紫色の瞳を魅惑的に(きら)めかせて、鳥の羽毛のような睫毛(まつげ)を少し伏せて……薄い唇の端を優美に上げて、緩くウェーブがかかった白金色の髪を(やわ)らかく揺らして……そして……)
 想像しているうちに、またひと際大きくどきりと胸が鳴ったのだが、その瞬間に背後から両肩を何者かに(つか)まれ、危うく悲鳴を上げそうになる。
「きゃ…………っ!」
 慌てて両手で口を覆い、かろうじて声を呑みこんだのは、肩を抱き寄せながら顔をのぞきこんできたのが、よく見知った人物だったからだ。
「こんなところで何をしているの? ルージェナ」
「オリヴィエ!」
 いつの間にか背後に立っていたのは、ルージェナの最高にして唯一の友人であるオリヴィエ・カドレーツィオだった。
 ルージェナと同じように伯爵家の令嬢で、年齢も同じ十八歳。近くに住んでいることもあり、頻繁(ひんぱん)にお互いの屋敷を行き来している仲だ。
 さっぱりとした性格で頼りがいがあり、小柄なルージェナと違ってすらりとした長身の親友は、長い濃茶色の髪を揺らし、ルージェナが小一時間も開けあぐねていた扉の取っ手に、あっさりと手をかける。
「中に入りたいの? じゃあ一緒に行きましょう」
「え? あ……ちょ、ちょっと待って!」
 ルージェナは慌てて止めようとしたが間にあわず、心構えが完了する前に、開いた扉の中へ入ることになってしまった。しかも勢いがついて、オリヴィエよりも勇ましく、部屋に乗りこんだような格好になる。
「あ…………」
 数歩進んだところでかろうじて足を止めることには成功したが、大股で前のめりという貴族の令嬢にあるまじき体勢が恥ずかしい。部屋にいた人々の視線が一瞬にして自分に集まったと知り、真っ白な頬を赤くして(うつむ)いた。
「し、失礼しました……」
 下方だけ緩くウェーブのかかった長い黒髪が、ルージェナの華奢(きゃしゃ)な肩からさらりと滑り落ちて、真っ赤に染まった横顔を隠す。
「お騒がせして申し訳ございません」
 背中に(かば)うようにオリヴィエが前に立ってくれたが、部屋の最奥から飛んできた低い声は容赦がなかった。
「これはこれは……カドレーツィオ伯爵令嬢に、プレジャーク伯爵令嬢……初々しいお嬢さま方が、こんな時間にいったいなんのご用でしょう? 早く屋敷へ戻らなければ、ご両親が心配なさるのではありませんか?」
 口調はいたって丁寧だが、その内容は、端的に言えば「子供はさっさと家へ帰れ」ということだ。
 くすくすと部屋の中で、いくつもの忍び笑いが起こる。笑っているのは声の主を取り囲むようにしてそれぞれソファーに座っている、ルージェナより少し年上の令嬢たち。
 ルージェナは恥ずかしさにますます頬を赤くし、急いで(きびす)を返しかけたが、オリヴィエが床を踏みしめて立ち、その場から動いてくれない。
「オリヴィエ……?」
 普段は理知的なオリヴィエの緑色の瞳が、きらりと挑戦的に煌めく。
(あ……まずいわ)
 不敵に口角を上げた親友の表情に、ルージェナの背中に冷たいものが滑り落ちた時には、もう遅かった。
「失礼ですが、エリアス殿下。私たち、もう十八歳になりました。すでに社交界でのお披露目(ひろめ)も済ませています。だからこそこうして、夜の王宮にも出入りしているのですが?」
 誰に対しても臆することなく、自分の意見をはっきりと言えるオリヴィエに、ルージェナは常々憧れの気持ちを抱いているが、今は相手が悪い。
 部屋の最奥に置かれた肘かけ椅子(いす)に、泰然(たいぜん)と座っている容姿端麗な美青年は、レスニツア王国第二王子──エリアス・ボードレーク・レスニツア。
 白金色の髪に紫色の瞳、肌は透きとおるように白く、すらりとした長身で、絵画から抜け出てきたような容姿をしている彼は、『麗しの王子』とも呼ばれ、社交の場では常にその中心にいる。
 どこへ行っても、彼の周りには女性の輪ができるし、王宮の一画ではそういう者たちを集めて、頻繁にサロンも開いている。
 今宵も、普通の応接室の三倍はあろうかという大きなこの部屋で、煌びやかなドレス姿の令嬢たちに囲まれ、王者のごとく肘かけ椅子(いす)に深く背中を預けていたエリアスは、オリヴィエの言葉を受けて、長い脚を悠々と組み直した。
「きみたちが十八歳になったことは私も知っているよ、オリヴィエ嬢……披露目の舞踏会にはもちろん出席していたからね……おめでとう。確かにきみなら、下心いっぱいで近づいてくる下賤(げせん)な男たちなど、その選択眼と(たく)みな弁舌であっさり退(しりぞ)けてしまうだろう……王宮に出入りする数多の貴族の中から、きみにもっともふさわしい男を見極めればいい。ぜひがんばって……でも、同じように十八歳になったからといって、みんながそうとは限らない……」
 気品と優美さに満ちたエリアスの瞳が、すっと細められ、自分に定められたと感じてたルージェナの頬はますます赤くなった。
(それって……私のことだ……)
 小柄で童顔なため、年齢よりも幼く見えることに加え、オリヴィエのように自分の意見をはっきりと言えないことが、ルージェナの弱みだ。
 自分でもよくわかっている弱点を、社交界の華と(たた)えられている令嬢たちの前でわざわざ指摘され、この場にいることが辛くなる。
「もう帰りましょう、オリヴィエ」
 やはり来るのではなかったと後悔(こうかい)しながら、オリヴィエのドレスの袖をひっぱるのに、彼女は微動だにしない。
 それどころかぐいっと、ルージェナの肩を抱いて(そば)にひき寄せた。

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