人嫌い公爵は若き新妻に恋をする

春日部こみと

第一章 淑女は棄てられる (1)


   第一章 淑女は棄(す)てられる


「つまり陛下は、殿下とわたくしとの婚約を、なかったことにすると(おつしや)っておられるのですね?」
 ミネルヴァは、春風のように軽やかな口調でそう(たず)ねた。
 艶のある漆黒の巻き毛を上品に結い上げ、小さな白いかんばせの上には宝石のように(きら)めく菫色の瞳。形の良い大きな目を、長い睫毛が縁取っている。瞳の色に合わせたウィステリアカラーのドレスは、その豊かな胸を強調するデザインながらも、あくまで品を保ち、かつ最先端の流行を押さえていて、なにより彼女にとても良く似合っている。
 背筋をピンと伸ばして立つ姿は、とても十八歳とは思えない気品があり、さながら純白の大輪の薔薇のよう。
 微笑みは華麗、所作は流麗、指の先の動きまで典雅で、彼女が歩いた道には薔薇が咲くと(うた)った詩人までいる。
 頭のてっぺんから爪先まで、完璧な淑女。
 それが、ウィンチェスター侯爵令嬢、ミネルヴァ・クリスティーナ・パウレットだ。
 ここは王宮の一室で、この国の王と、その王太子、メルクリウス・ジョン・アンドリューが彼女の前に立っていた。王は困ったようにふさふさとした眉尻を下げているが、王太子の方はにっこりとした笑顔を浮かべている。
 ミネルヴァもまたにこやかな表情を崩さないが、内心では舌打ちをしたい気分だった。
 金髪碧眼(へきがん)の美貌、まさに絵に描いたような『王子様』であるこのメルクリウスが、実はその見かけと正反対の、一筋縄ではいかない性格をしていることは、幼馴染みであるミネルヴァがよく分かっている。
 なにしろ、舞踏会でワルツを踊っている時に、虫も殺さない顔をして
『ミネルヴァ、最近太ったんじゃない? なんか二の腕がムチムチしてるよ』
 などと爽やかな口調で言ってのける根性悪だ。
 ちゃんとミネルヴァにしか聞こえない程度の囁き声を使う、という腹黒さである。
 皆の前で醜態を(さら)すわけにはいかず、笑顔を保つのにどれほどの忍耐を強いられたか分からない。
 そんな根性曲りの幼馴染みだから、婚約破棄を言い渡すこの瞬間すらも、まったく悪びれないのにも、なんら不思議はないのだが。
「ごめんね、ミネルヴァ」
 涼やかな笑顔で、サラッと謝られ、さすがのミネルヴァもひくりと柳眉を上げる。
「できるならば、理由をお聞かせ願いますわ」
 ミネルヴァの父であるウィンチェスター侯爵は、祖母が王女という由緒ある血筋で、経済的に豊かな地所を持つ大貴族だ。無論、政治的にも大きな力を持つ。
 その父の娘であるミネルヴァとの婚約は、安易に破談して良いものではないだろう。下手をすれば政治に混乱をきたす恐れは十分にある。
 納得できる理由がなければ、と(いど)むようにメルクリウスを見る。
 するとミネルヴァの言いたいことは理解しているのか、メルクリウスはにやりと口の端を上げた。まったく、相変わらず(しやく)に障る男だ。
「この間、僕がサムルカ帝国に訪問したことは覚えているよね?」
 勿論覚えていたので、ミネルヴァは頷いた。
 サムルカ帝国は、現在大陸の中で最も力のある国だ。
 元々は他の王家が治める専制君主制の小国であったのだが、二十年ほど前に、サムルカというカリスマ性のある一兵士が、民を搾取する王に怒り奮起し、これを打倒した。そしてその国の支配者となったサムルカは、自らを皇帝と名乗り、平民の下剋上を認めないと(わめ)く周辺諸国を軍事力で制圧し始めたのだ。
 サムルカは戦の天才と言われる。どんなに分の悪い戦争にも、必ず勝利したのだ。
 そんな稀代(きだい)の覇者であるサムルカに、大陸の国々は次々に膝を折ることとなった。
 今や大陸のほとんどはサムルカ帝国の支配下にある。
 そしてこのルドニア王国は、大陸とは運河を挟んだ島国となっており、からくもその支配を免れているのである。
 基本的に帝国に従順な態度であるルドニア王国に、現在のところサムルカは友好的な関係を保つつもりでいるらしい。とはいえ、挟んでいるのは幾海里もある海ではなく、頼りない運河である。いつサムルカの手が伸びるかも分からず、戦々恐々としている状況だ。
 そんなサムルカ帝国の第二皇女の降嫁が決まり、その祝いの席へ、つい数か月ほど前にメルクリウスが訪問したのだ。
「その時にね、どうやら僕は、一目惚れをされてしまったようなんだよ。帝国の第三皇女様に。それで、皇帝から彼女の降嫁先にとの打診があったんだ」
「まぁ!」
 やれやれと肩を上げてみせるメルクリウスに、ミネルヴァは顔を輝かせた。
「なんて素晴らしいのでしょう! 帝国との婚姻締結は、何よりの安全保障となりますもの。皇帝の姫君を陥落なさったその手腕、お見事です。殿下」
 喜色満面に王太子を褒める令嬢に、王太子も艶やかに微笑み返す。
「君ならそう言ってくれると思ったよ、ミネルヴァ」
 その台詞(せりふ)に、ミネルヴァは心外そうに目を見開いた。
「まあ、当り前ですわ。第一に優先すべきは、この国。帝国との関係強化に比べれば、わたくしとの婚姻など些末(さまつ)なことですもの」
 いっぺんの憂いもなく、(あで)やかな笑みさえ見せながら、ミネルヴァは言い切った。
「それよりも、これで我が国は帝国の脅威から遠のいただけでなく、その庇護(ひご)下に入ったも同然ですわ。しかも、我が国の権威を損なわず、帝国と対等な立場を保証されたのですから」
 と、この国の外交事情を冷静に分析すらしてみせるミネルヴァに、王が目を白黒させた。
 今まさに婚約破棄を申し渡されたというのに、怒りや愁嘆を見せないばかりか、『国の慶事だ』と潔いまでに喜ぶミネルヴァに、王の方が困惑してしまう。
 ここまで物分かりが良いと、戸惑ってしまうのは致し方ない。
 だが王は一方で、確かにこれが『完璧な淑女、白薔薇の君』と名高い、ミネルヴァという令嬢なのだと、心の中で頷いた。
 ミネルヴァは幼い頃より利発で思慮深く、冷静な子どもだった。
 加えて見た目の麗しさや身分から、この娘ならば王太子の婚約者に相応(ふさわ)しいだろうと、王自ら見込んだのだ。
 やはり自分の人を見る目は確かだったと思いながら、しかし同時に、この未来の王妃としての素質を完璧に備えた令嬢を、手離さなくてはならない状況を、王は今更ながら残念に思った。
「ありがとう、ミネルヴァ。そなたには申し訳ないことをするが……」
 謝りかけると、ミネルヴァは「いいえ」と首を横に振る。
(よろ)しいのです、陛下。元よりわたくしと殿下の間に、親愛はあっても恋情はありません。幼い頃よりお傍にいすぎたせいもあるのでしょう。今のお話も、兄君が結婚をすると聞いたような、晴れやかで喜ばしい気持ちしかないのです」
 そして王と王太子に向き直ると、ドレスを抓んで優雅な礼を取ると、涼やかな声で言祝(ことほ)いだ。
「おめでとうございます、陛下、殿下。このルドニア王国の未来が、より洋々たるものになったこと、心よりお祝い申し上げます」
 こちらを見上げる菫色の瞳の中には、まっすぐな美しい色しかない。
 ミネルヴァがこの場で()(ごと)を起こすような娘ではないと分かっていたはずだが、それでも王は、ようやく心から安堵(あんど)の吐息をついた。
「そなたの利他的精神を、この国の王として誇りに思う。とはいえ、そなたの将来に傷を負わせると同義なことを強いるのだ。改めて良縁を世話させてもらおう」
 王の申し出に、ミネルヴァは驚いたように肩を上げた。
「まあ、恐れ多いことにございます、陛下。ですが、わたくしのことはどうぞお気遣いなく」
「そうはいかぬ。これは王としての義務でもあろう。……とはいえ、新しき縁談については、そなたの父であるウィンチェスター侯爵にも考えがあろう。侯の意見を聞いてからが良いな」
 王の言葉に、ここにきて初めてミネルヴァが少し苦い表情を見せる。
「……わたくしのような娘など、(めと)られる方がお気の毒ですわ……」
「なにを申すか! そなた以上に完璧な娘はおらぬと言うのに。知的で思慮深く、誰よりも美しく優雅な令嬢と評判だ。『白薔薇の君』と、社交界で若い娘たちの憧れになっているではないか。我が娘ディアナも、そなたに傾倒しておるぞ」

「人嫌い公爵は若き新妻に恋をする」を読んでいる人はこの作品も読んでいます