人嫌い公爵は若き新妻に恋をする

春日部こみと

プロローグ (2)

 家庭教師に勉強を教わっている時にも、母と刺繍(ししゆう)を刺している時にも、カドリールの練習をしている時も、気が付けば美しい彼女の姿を頭に浮かべているのだ。
 会いたい、と明確に誰かを想ったのも、彼女が初めてだったかもしれない。
 そして父に王宮に連れて来られると、必ずこの迷路園を訪れるようになったのだ。
 会えないかもと半ば諦めながら足を踏み入れた迷路園だったが、果たして彼女はそこにいてくれた。
 再び姿を現したミネルヴァに驚くこともせず、それどころか少し呆れたような微笑を浮かべて言ってくれたのだ。
『君も物好きだね。また迷子になりに来たの、ミネルヴァ』
 と。
 それ以来、王宮を訪れる度に、ミネルヴァはこの迷路園を彼女に会いに訪れるようになったのだ。
「ミネルヴァ?」
 いつの間にか物思いに(ふけ)っていたミネルヴァは、呼びかけにハッとして顔を上げた。彼女が怪訝(けげん)な顔をしてこちらを(のぞ)きこんでいる。
 なんでもない、と首を横に振れば、彼女はクスリと笑ってミネルヴァの額を指で突いた。
「ぼんやりさん」
 その微笑があまりに華やかで美しく、ミネルヴァはポッと(ほお)を赤らめる。
 彼女はそんなミネルヴァの手を引いて目当ての薔薇の株に近付くと、まるで内緒話をするように、そっと(ささや)いた。
「ホラ、一輪だけど、今朝、花開いたばかりなんだ」
 そこには、綻んだばかりの緑色の薔薇の花があった。
 クリームに翡翠を溶かしたような、淡くまろやかな色合いに、ミネルヴァは「わぁ!」と感嘆の声を上げる。
「素敵……! なんてきれいなんでしょう!」
 まだ語彙力のない幼子ゆえの拙い言葉に、彼女が目を細めた。
「この薔薇はまるでミネルヴァみたいだね。無垢(むく)で、しなやかで、瑞々しい」
 そんな褒め言葉をもらって、ミネルヴァは嬉しくて顔を輝かせた。
「本当に?」
 大きな紫色の瞳をキラキラと煌めかせるミネルヴァを、彼女は少し(まぶ)しそうに目を細めて、こくりと(うなず)いてくれる。
「大きくなったら、君はとても美しくなるよ。それこそ、この薔薇の妖精のように」
「まあ! それはあなたですわ! あなたこそ、薔薇の妖精の女王様なのに!」
 薔薇の妖精そのものである彼女からそんなことを言われて、ミネルヴァはビックリして声を上げた。
 すると彼女もまたビックリした顔でミネルヴァの顔を凝視し、それから盛大に噴き出した。
「私が? 薔薇の妖精の女王?」
「ええ!」
 目の前の美貌の人を薔薇の妖精だと信じて疑わないミネルヴァは、さも当然とばかりに首肯する。
「あっはっは! そう、君にとって、私は薔薇の妖精の女王なんだね!」
「もう! どうして笑うのです!」
 お(なか)を抱えて笑い声を上げる彼女に、さすがにミネルヴァは頬を膨らませた。
 ミネルヴァの機嫌を損ねたことに気づいた彼女は、涙を拭き拭き笑いを治めて、むくれるミネルヴァの頬を両手で挟んだ。
「ごめんね。君があんまり可愛(かわい)いから」
「可愛いと笑うなんて、おかしいですわ!」
 いまだ(へそ)を曲げながらも、目の前の彼女の優しい微笑みには、どうしても目を奪われてしまう。吸い込まれそうに美しいエメラルドグリーンの瞳を見つめれば、少し恨めしそうにしながらも、うっとりと彼女に見惚れる自分の顔が映っていた。
 ミネルヴァが彼女に夢中なことなど、きっと彼女にはお見通しなのだろう。
「誰よりも君が可愛いよ、ミネルヴァ。私の、薔薇の妖精さん」
 甘い声音で、囁くようにそう言って、彼女はミネルヴァに顔を寄せた。
 唇に柔らかなものが重なる感触がして、ちゅ、という可愛い音が鼓膜を震わせる。
 ミネルヴァはびっくりして、目をまんまるにしてしまった。
(キスをされたわ! 唇に!)
 唇にキスは、家族だってあまりしない。
 それは恋人にとっておくキスだから、と母が言っていたのだから。
 恋人ではない人からキスをされてしまい、どうしよう、とミネルヴァは眉を下げた。
 困った顔になったミネルヴァに、彼女もまた少し困った顔をする。
「ごめんね。嫌だった?」
 そう問われて、ミネルヴァは考えるまでもなく首を横に振っていた。
 嫌なはずがない。むしろ、とても嬉しかった。
 ちょっと驚いてしまっただけだ。
「いいえ! とっても……素敵でしたわ」
 ポッと頬を染めてそう伝えれば、今度は彼女が目をまんまるにする番だった。
 なにか変なことを言っただろうかと、ミネルヴァが不安を覚えた時、彼女がふわりと破顔した。
「……そっか。じゃあ、もう一回してあげる」
 思いがけない申し出に目を瞬いたミネルヴァの唇に、再び彼女の柔らかなそれが重なる。
 その甘い感触に、うっとりと目を閉じながら、ミネルヴァは思った。
 このキスは、きっと間違っていない、と。
 恋人、とは、恋をした人のことだ。
(わたくしは、この方が好きだもの!)
 それは胸を張って言える。
 彼女といるのが、嬉しくて、楽しくて仕方ない。ずっと一緒にいたいと思う。
 ドキドキして、ふわふわするこの想いを、きっと恋というのだ。
(わたくしは、この方に恋をしてしまったのだわ!)
 幼いミネルヴァには、恋の相手が妖精であるとか、女性であるなど、関係はなかった。
 自覚したばかりの初恋に、ひたすら胸をときめかせるばかりだったのだ。

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