国王陛下の逃げた花嫁

白金あろは

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 王宮にやってきて一週間が過ぎた。
 自分の家で細々と布に針を通していたアメリアは、時間で区切られた集団生活に初めは戸惑ったが、次第に慣れて周囲に合わせ働けるようになった。
 刺繍工房は責任者であるカレンの指揮のもと、染色(せんしょく)縫製(ほうせい)を専門にする部署と歩調を合わせながら、王族の身の回りの品々や衣服に美しい刺繍をするのが仕事だった。
 王家であるヴァレンテ家の紋章は(たか)で、だからまっさきに覚えなければならないのは鷹の意匠だったが、特に王太后が身に着けるドレスや帽子は社交界の話題になることが常だったので、流行を取り入れながらも品のある繊細な刺繍が求められた。
 基本的なチェーンステッチやサテンステッチもより丁寧に仕上げなければならないし、宝石や硝子ビーズを縫い込む華やかなデザインも多い。それだけに難しいがやりがいもありそうで、昼間は仕事に夢中になった。
「アメリア、隣の工房に行って布を持ってきて。絹の黄色いのが届いてるはずだから。あと壁掛け用の毛織物もね」
「はい」
 職人仲間の指示に、アメリアはすぐ席を立った。
 新人のため、細かい雑用を言いつけられることも多い。どこになにがあるか、他の工房はどこで責任者は誰かなど覚えなければいけないことばかりなので、恥ずかしがらず積極的に他の工房にも出向くようにしていた。
 それに、一生懸命働いていれば周囲の嫌味や哀れみの視線も気にならない。疲れて夜も早く寝てしまうので、よけいなことを考えずにすむ。
 早く一流の刺繍師になって、病気の母親にいい薬を買ってあげたいし、おいしいものも食べさせてあげたい。
 母親が元気になれば妹たちも安心だろう。そのためにも頑張らなくては……。
 アメリアは隣り合った工房で渡された大きな布地を三巻き抱えながら、ふうふうと仕事場に戻った。
「ああ、アメリア。悪いのですが、すぐここに行ってください」
 席に戻る間もなく、工房頭のカレンがアメリアに地図を渡した。
「城内ですが、王の私室になります。従者がいるはずなので、そこで布地を受け取ってくるように」
「は、はい……。王様の、私室ですか……?」
「すぐに行きなさい」
「はいっ」
 わけもわからず、アメリアは地図を持って再び仕事場をあとにした。
 王宮は広い。
 アメリアが知っているのは工房近辺だけだ。王の私室なるものがどこにあるのか、見当もつかない。外に出たところで紙を広げ、思わず眉を寄せた。
「遠い……」
 自分のいる刺繍工房は王城の北の端近く。対して印のついている場所は中央部にある本宮殿だった。
 そこはヴァレンテ城の心臓部に当たり、王や中央の貴族たちが集まって日々政治を行っているところだと聞いていた。
 いくつか建物のある王城の中でもひときわ広大な城であり、中はふたつに分かれている。政治をつかさどる表と、王族が私生活を営む奥とだ。
 今回は王の私室だそうだから、奥に行くということだろう。しかし、その本宮殿に到達するまでが大変そうだ。初日、ぐるりと城の周囲を歩かされた記憶が蘇る。
「もしかして、歩きたくなかったのかしら、カレン様……」
 真意を疑いながらも、仕事なのだし、と思い直して、アメリアは地図のとおりに歩き始めた。
 そして半刻後。
 途中少し迷って厩舎(きゅうしゃ)の建物に出てしまい、道を教えてもらいながら、アメリアはようやく本宮殿の北側部分である奥に到着した。
 身長の倍もありそうな大きな扉の前で警備をしている騎士に用件を伝えて、案内してもらう。
 本宮殿の中に入ると、そこは明らかに、アメリアたちが住んでいる工房の建物とは造りが違っていた。
 天井は吹き抜けになっているかのように高く、廊下も階段も二頭立て馬車が通れそうなくらいに広い。壁には豪奢な刺繍をほどこされた織物がかかっていて、見ると聖人の物語が描かれているようだった。
「素晴らしいですね」
 思わず呟いてしまい、ハッと口を閉じる。しかし騎士は嬉しそうにアメリアを振り向き、笑顔を見せた。
「ヴァレンテは強国で豊かだからな。王族は芸術にも造詣(ぞうけい)が深いのだ」
「そうなのですか。それは素敵なことです」
「ところで娘、城には奉公で来たのか? 出身はどこだ? 俺は南の……」
 心なしか目を輝かせて顔を近づけてきた騎士が、アメリアの手を取ろうとする。
「あのっ、王、王の私室は……っ」
 さりげなく両手を背中に隠したアメリアは慌てて聞いた。
「私室は目の前だが、ちょっとくらい遅れてもいいのではないか……?」
「いえっ、し、仕事中なもので……っ」
「ばれやしないよ。まずは挨拶から」
「いえその」
 そのとき廊下の反対側から人が歩いてきた。アメリアはほっとする。
 騎士は露骨に渋面(じゅうめん)を作ったが、背筋を伸ばしてよそゆきの表情に戻った。
 やってきた男性はひとつの扉の前に立つ。その男に騎士は告げた。
「刺繍工房からやってきた職人が、侍従頭と面会だ」
「わかった」
 男はすぐ扉を開け、その横に立った。どうやら私室の警備兵らしい。ちょうど交替の時間だったのだろうか。
「聞いております。どうぞお入りください」
 男は丁寧にアメリアに告げた。
「恐れ入ります」
 アメリアは、助かった、という思いで兵が開けてくれた扉をくぐる。
 そこは、意外に小さな部屋で無人だった。
 床には厚い絨毯(じゅうたん)が敷かれているが卓と椅子が数脚あるだけで、他には小物入れらしい箪笥(たんす)が置いてあるきりだ。思わず兵を振り向くがとっさに声をかける勇気が出ず、扉はぱたんと閉められてしまった。
 侍従はあとからやってくるのだろうか。この部屋で待てという意味だろうか。
 再度部屋を見回すと、奥へ通じる扉が小さく開いている。
 ここは控えの間で、奥でお待ちなのだろうか。
 アメリアはそっと扉の向こうを覗き込んだ。
 そこは、どうやら居間であるらしい。
 ふかふかした感じの寝椅子や小机が配され、中央にある丸卓の上には果物と杯が置かれていた。窓は開け放たれ、陽光が降り注いで室内は明るい。
 落ち着いた気持ちのいい部屋だ。思わず室内に足を踏み入れてしまうが、ここにも人影はない。
 やはり侍従はまだのようだ。先ほどの小部屋で待っていたほうがいいのだろう。
 戻りかけたそのとき、いきなり小部屋の扉が勢いよく開き、廊下からひとりの男性が現れた。
 大柄でがっしりした体格の、黒髪の男性だった。髪は肩につかない程度で長くはなく、自然に垂らしているがわずかに癖がある。
 黒いブラウスにやはり黒いズボン、羽織った上着も黒という、どちらかといえば地味ないで立ちのはずだが、なぜか華やかな印象があった。例えれば大型の猛禽類(もうきんるい)……鷹を思い出させる男性だ。
 顔立ちは驚くほど端整だったが、優しさは感じられない。
 なによりも印象的なのはその目だった。
 キッとアメリアを睨むような大きな瞳は、色は黒だがどこか燃え立つような灼熱の赤を連想させた。
 侍従なのかしら。なんて美しくて怖そうなひと……。
 アメリアは息を詰めながらも、男性から目を離せずにいた。
 男性はそんなアメリアに視線を据えたまま、挑むように大股で部屋に入ってくる。
 まるで怒っているかのような迫力に、アメリアは自分が勝手に部屋に入り込んでいたことを思い出し、体が竦んでしまった。
 男性は腹を立てているのだ。主が留守のときに、しかもたぶん居間に入ってしまったのだから。
 なんて失礼なことをしてしまったのだろう。
 きっと叱責(しっせき)される。無礼を謝らなければ、と思うのだが、緊張で体が動かない。早く謝罪を……と焦れば焦るほど、声も出てこない。
 まっすぐ居間までやってきた男性は、どうすることもできずに立ち尽くすアメリアをジロジロと遠慮なく見回した。
 頭から足先まで、男性の視線でアメリアはその場に縫いつけられたような気がした。こんなに刺すような強い視線を浴びせられたことは今までにない。
 ……えっ?
 いきなり男性の腕が伸びてきた。びくっとして目を閉じたアメリアは、強い力で腕を掴まれたのを感じる。
 無礼を(とが)められる、と思ったアメリアは小さな悲鳴をあげて顔を背けてしまった。怖かったのだ。
「なにをしている。もっと奥へ行くのだ」
 そのまま腕を引っ張られ、居間の中央付近に連れていかれた。
 どうしよう、と思った。
 早く許しを請わなければ。早く……!
 なのに声が出ない。体が震える。

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