箱庭の初恋【SS付き電子限定版】

北山すずな

第一章 (3)

 ──たすかったのだわ。わたしたちはころされなくてすむ。
 そう思うと、急に足が痛くなり、お腹も空いてきた。
 信じられないほどたくさん歩いて、痛くないほうがおかしいくらいだ。
 これまでも同じ痛みがあったはずだが、それを感じる余裕が今できたのだった。
 生きた心地がして改めてユーリ見ると、彼は褐色(かっしょく)のごわごわした外套(がいとう)の下に、生成りのシャツを着て、腰にはなめし皮のベルトをし、ホーズと膝までのブーツを履いていた。
 彼が斜め掛けしている大きな薄汚い頭陀袋には、いろいろな道具が入っているだけでなく、エドマンドが疲れてくると、(ふくろ)(また)ぐように座らせることができて便利だ。エドマンドはその取っ手に掴まって、「おうま、おうま」と言いながら、上機嫌でユーリに運ばれていく。
 ヘレナのスカートはあちこちが破れてしまった上に、草いきれや泥で汚れている。布靴も擦り剥けてしまったが、歯を食いしばって歩き続けた。
 ユーリは前日よりは歩みを緩め、まだ日の暮れる前に寝床を作ってくれた。
 三人が身を寄せるだけの空間を確保できる岩場を探し、木の枝を岩から地面に立てかけて『雨と風をこれで防ぐんだ』と言った。
 ヘレナは、それを見ているだけで、なんの手伝いもできなかった。
 彼に置き去りにされたらどうなるのだろう。
 だが、怖がりで泣き虫の弟が、随分辛抱強くなったように思う。
 それだけは本当にありがたかった。
 追っ手のいるところで、エドマンドがどうしてもしゃくりあげて止まらなくなったら、と考えると、ヘレナは命の危険を感じて身震いしてしまう。
 たった七歳で死を身近に感じ、たった数日で何年も大人になった気がする。
「寒いのか?」
 と、ユーリが言った。
「いいえ。マントがあるもの、へいきよ」
 彼は目ざとい。怖くて震えたなんて、絶対に知られたくないのに。
 ユーリは、木の枝を組んで、そこで火をおこすと、不格好な鉄の皿で、ドロドロした糊のようなものを作った。
「……それはいったい何?」
 ヘレナは、その答えが食べ物ではありませんようにと祈ったが、むなしかった。
「粥だ。干した豆や麦を水で戻して炊いてある。さあ、食べろ。器はこれしかないから、順番に食べるんだ」
 と、ユーリが言った。ヘレナはげんなりした目を粥に向けた。
「うそ──」
 ミルクも蜂蜜も入っていない粥なんて、聞いたことがない。
 だいいち、こんな気味の悪いものを弟に食べさせて大丈夫だろうか。お腹を壊したりしないだろうか。
 ユーリは何食わぬ顔をして、木のスプーンでそれをひと匙すくって口に運んだ。次に、エドマンドに匙を差し出した。同じ器で三人が食べるなんて、信じられない。
「あっ、まちなさい、エドマンド」
 しかし、幼い公子は素直なもので、姉の止めるのも聞かずに、ユーリに言われるままに口を開けて粥を食べた。
 無理もない。姉弟ふたりで逃げ出してきて、もう三日以上、飴以外の食べ物を口にしていない。
 エドマンドは美味しそうに、いつもよりたくさん食べた。
 不安はまだ(ぬぐ)えないが、ヘレナは弟を見て、生き延びられるという気がした。
 母は別れ際に、エドマンドを守って強く生きるように、と言った。
 ヘレナはそれを心に刻んだが、思ったよりも難しい。
 自分の小さな手は、森で生きる(すべ)を何一つ知らない。
 弟のほうがたくましく環境になじんでいくみたいだ。
「姉さんにも残してやれ、また作ってやるから。……さ、次はおまえだ、食べろ。今まで弟にばかりやって、何も食べてないだろう」
 彼は見ていてくれた。ユーリはエドマンドから粥を取り上げてこちらに回した。
 不味そうな見た目だったが、おそるおそる口に入れる。
 空腹だからか、意外とおいしい。
「残り全部食べろ、俺はいいから」
 こんなふうにして、一つの器からみんなで食べ終えると、ユーリが言った。
「これから、食べられる草を教えるから覚えておくといい」
 彼はそういうことに慣れているらしいが、冗談じゃないと思った。公爵家の子どもである自分たちが、いやしくも野草を拾って食べるなんて、考えただけでもぞっとする。
 ところが、エドマンドは目を輝かせて、ユーリの示す植物を手に取ってながめ、名前を復唱している。むずかるよりいいので、やりたいようにさせておく。
 男の子はそういうのが好きなのだろう。
「ランズベリーまであとどのくらい?」
「おまえたちの足じゃあ、まだ十日以上はかかりそうだな」
「そんなに……!」
 もう足が痛くて体もへとへとなのに。
 しかし、エドマンドは時々ユーリが運んでくれたとはいえ、つらいとも痛いとも言っていない。姉が泣き言を言うわけにはいかない。
 ドレスの下に傷だらけの足を隠し、その痛みをこらえていると、ユーリがこちらを見た。
「どうした?」
「べつに、ちょっとおどろいただけよ。へいきよ。じろじろ見ないで」
 道すがら聞いたところでは、彼は騎士従卒として城で鍛錬していたらしい。本来なら『おまえ』呼ばわりなど絶対に許せないが、恩人なのでヘレナはこらえている。
 この危機を乗り越えたら、身分の違いを知らしめてやらなくては。
「見せてみろ」
「え?」
「足──痛いんだろう」
 そう言って、彼はヘレナの足首を掴んだ。
「やっ、何するの!」
「布靴なんかで歩くから、傷だらけじゃないか」
 彼もまだ子どもだというのに──あとで聞いたところでは十四歳だった──、ヘレナの足を捉える力はとても強い。手も大きい。
「これしかないもの……はなしてったら」
 じたばたしても、解放されるどころか、布靴を脱がされてしまった。
 恐怖を感じたが、エドマンドがきょとんとこちらを見ていることに気づくと、ヘレナは冷静さを取り戻した。
 弟を(おび)えさせてはいけない。何もわからない、まだ小さな弟だもの。
「待っていろ、薬を取ってきてやるから」
 ユーリは立ち上がると、ヘレナたちが休んでいる岩のウロから出ていった。
 エドマンドはすっかり落ち着いている。ユーリを信頼しきっているのだ。
 一方、自ら助けを求めたものの、ヘレナは心から彼を信頼しているわけではない。
 王族たるもの、いつも死の危険と隣り合わせだ。一瞬も気を緩めてはいけない。
 とはいえ、ユーリがいなくなると、急に心細くなってきた。
 今ここに追っ手がきたらどうしよう?
 彼がいたところで、どうにもならないが。
 しかし、彼は恐怖に打ち勝つためには心の中で祈れと教えてくれた。
 彼自身は敬虔な信者には見えないけれど。
 ──主よ、あわれみたまえ。
 そう心の中で唱えているうちに、ユーリが戻ってきた。
 革の入れ物に汲んだ水で、ヘレナの足を洗い、草をつぶした汁を塗った。得体の知れない治療を施されたが、足の痛みが嘘のように引いた。
「どう? まだ痛いか?」
 そう言って、見上げる彼の瞳に、ヘレナの視線が吸い寄せられた。
 きれいな薄紫色──。
 それに、やさしい目。
 言葉遣いは荒っぽいけど、本当はいい人かもしれない。
 よく見ると、顔立ちもとても整っていてきれいだ。
 指の形もきれい。
 言葉は悪いけれど、声は甘くてやさしい。
 少なくとも、自分たちを探し回って怒鳴っていた兵士たちよりは品格が上だということは、なんとなくわかる。
 最初は薄情だと思ったが、本当はヘレナたちを見逃すというだけでも、勇気の要ることなのだ。莫大な褒美をもらい損ねてしまうし、見逃したことがわかれば、処罰されるかもしれないのだから。だから彼についていこうとヘレナは決めた。

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