箱庭の初恋【SS付き電子限定版】

北山すずな

第一章 (2)

「手をはなせば、なきごえで見つかってころされてしまうもの」
「ふん。……幸か不幸か、おれは抜け道にここを通っただけだ。何も見なかった」
 ユーリがそう言うと、少女を取りまいていた険しい空気が少し和らいだ。
「そう──じゃあ早くいって」
 彼女が手を離したとたんに、幼児がしゃくりあげた。
 黙っていれば人形のような子どもたちだ。姉のほうは、カシミヤのマントの下にバテンレースをあしらった黒いドレスを着ていた。
 少女の幾房かに分けて巻かれた金の髪には、共布のヘッドドレスをつけている。
 弟の黒いベルベットの服の、裾や袖口に金糸の縫い取りが施されており、大きなペンダントをさげている。臙脂(えんじ)のタイツの膝下には金のチェーンの靴下留めを巻き、短い革のブーツを履いていた。
 炎をデザインした金のペンダントは公爵家の紋章だろう。みすみす身上を露呈するような代物を身につけたまま逃亡するとは考えなしだ。
「今は泣くな」
 ユーリは低い声で言った。
「怖い時は、心の中で祈りの言葉でも念じていろ。泣き叫んだらもっと怖いことになるぞ、わかったか。『おいのり』だ」
 言ってもわからないだろうと思ったが、相手は姉のほうを見返して言った。
「おいのり、おいのり……?」
 すると、少女は勝ち気な眼差しでこちらを一瞥(いちべつ)してから、弟に教えた。
「とてもみじかいのだと……ええと、『主よ、あわれみたまえ』──言ってごらんなさい」
「しゅよ、あわれみたまえ」
 三歳児は(たが)わずに復唱した。
「そう。うまいわ、エドマ……」
 と、言いかけて、少女は慌てて自分の口を押さえた。ユーリは気づかぬふりをして、幼児に話しかけた。
「なかなか賢いな。それを口に出さずに、だ。できるな?」
 幼児はこくりと頷いた。
「よし、約束だ。じゃあ、おれは行く」
 三歳児を連れて逃げ歩くのは大変だろうな、と思いながら、ユーリは彼らに背を向けて歩き出した。
「まって」
 少女が呼び止めた。
 いやな予感に顔をしかめながら、ユーリは振り向いた。
「あなたはどこへ行くの?」
「……ランズベリーだが」
「とおいところ?」
「──ああ」
「そこへわたしたちをつれていって。お礼はかならずするわ」
 そんなことだろうと思った。
「断る。見逃してやっただけでも、おれは親切すぎたと思ってる。おまえたちを捕まえたら大金持ちになれるってのに」
「おおがねもち? どういうこと?」
「おまえたちには懸賞金がついてる。捕まえて王に差し出せば褒美がもらえるんだ」
 そんなことも知らずに逃げていたのか、少女は少し驚いた顔をしたが、意を決したようにこちらを見上げると言った。
「だったら弟だけでもたすけて。それに……まよってしまってここからでられないの」
(かくま)ったら処刑だ。やっかいごとに巻き込まれるのはごめんだ」
「ヒンギス王の血がとだえてもいいの?」
 ヒンギス王──それは、ブラウエル建国の祖と言われる伝説的な王で、今も細々とその血は受け継がれている。この名誉ある大理石の洞窟墓地にも、ヒンギス王の血筋の子孫、あるいはその血縁でなければ埋葬することができない。
 ブラウエル国民の多くは、今もヒンギスの血統を重んじるため、他国からの入り婿である現国王バルテルにとって、『洞窟墓地に入る資格』は何としても手に入れたいはずだ。
 しかし、バルテル王は、ヒンギス王の血筋であった王妃を姦通の罪で処刑してしまったため、今のところ、その資格を持たない。
 ユーリは高貴な血筋を鼻にかける生意気な少女にいらだちを覚え、ことさらに冷たく言った。
「ヒンギス……? どうでもいい、俺にとっては俺の血がいちばんだ」
 たとえ無名で貧しくても。
 すると彼女はきっと彼を(にら)み据えた。
「やくたたず! もういいわ、いきなさい」
 なんとまあ、王の末裔の傲慢なことだ。
 ユーリは呆れて、その場を離れてランズベリーに向かう出口へと歩き始めた。
 わざとゆっくり歩いてやると、予想どおり、小さな足音がついてくる。
 しばらく誘導して出入り口の近くまで来ると、ユーリは振り向いた。
 姉のほうはユーリから目を逸らした。あなたなんかに助けを乞うものか、というように。
 弟を見ると、彼は神妙な顔をしていた。自分の置かれた状況をどこまで理解しているのか、小さな手を擦り合わせて言った。
「……しゅよ、あわれみたまえ」
 いま覚えたばかりの呪文だ。
 金のおかっぱ頭を軽く傾け、たどたどしい物言いで──。
 心の中で唱えろ、と教えたのに、彼はもう一度言った。
「しゅよ、あわれみたまえ」
 小生意気な少女が、弟だけは助けて、と言った理由がわかった気がした。
 残酷なまでにあどけない視線をなげかけて、幼児はひたすらに救いを乞うている。
 かたや、高慢そうな少女が、実は全身全霊でこの幼児を守ろうとしている。
 こんな時、田舎の家族たちならどうしたっけ……。
 ユーリの、何年かの城暮らしで身についた冷淡さが崩れていくのを感じる。
 面倒なことになった、と彼は思った。

*   *   *
 三人は、兵士たちの声が遠のいた隙に墓地を出て、森の中を夜まで歩き続けた。
 ヘレナたちを見つけても国王に差し出さなかった、いかにも無欲そうなその少年の名はユーリ・グレンフィールドと名乗った。
 彼はエドマンドを肩に(かつ)いで、山の奥へ奥へと進み、ヘレナは必死に彼の松明の明かりを追いかけた。それを見失ったら、もう助かるすべはないと思った。
 真っ暗な森には道すらなく、ユーリが歩いて倒した草の跡をひたすらついていく。フクロウの声だけが物悲しく響き、もう兵士たちの声は聞こえない。
 ユーリの明かりがようやく止まった。
 周りがどうなっているのか、暗くてわからないが水音が微かに聞こえる。
「よし、今夜はここで寝る。弟は随分前に寝ちまったぞ」
 そう言って彼は、エドマンドを肩からおろして、何も敷いていない地べたに座った。
「おまえもそこに座れ」
「クッションがないわ」
「草がありゃ十分だろう」
 ヘレナは躊躇(ちゅうちょ)したが、ユーリの隣に座った。エドマンドは彼の膝の上で寝息を立てている。
「さあ、もう寝ろ」
 彼は、腕を伸ばしてヘレナを引き寄せた。
「……何をするの」
「温め合うんだ、夜は冷える」
 無礼な、と抵抗しようとしたが、結局ヘレナはユーリに従った。
 森でどう過ごすかは、彼の言うことに従ったほうがいい。
 それに、じわりと伝わってくる彼の体温はありがたい。
 緊張が解けると疲労が押し寄せ、彼女は深い眠りに落ちた。


 翌日も、三人はさらに森を進んだ。
 時折、遠くで人の声や鉄砲の音がすると恐怖で足がすくんだが、立ち止まってはいられない。
 エドマンドには、家を出る時に持ってきた飴玉(ボンボン)を少しずつ食べさせ、ヘレナは我慢した。今朝、最後の飴を弟に食べさせた。この先どうすればいいだろう。ヘレナは公爵家を出てから何も食べていないが、空腹は感じなかった。
 ユーリが時々分けてくれる水を飲んだが、それも昼にはなくなった。
 何度も後ろを振り向き、警戒心を解かなかったユーリが、その日の午後になってようやく立ち止まり、ぽつりと言った。
「完全にやつらを()いた。あとはランズベリーに向かうだけだ」
 ユーリは森を知り尽くしていたようで、獣道を巧みに見つけ出し、風向きや水の流れ、雲の動き、鳥や虫の声など、あらゆる自然の摂理を味方にして、追跡の網をかいくぐった。
 幼い子どもだけでここまで来ることは不可能と考えられたのだろう、追手の声はもう聞こえない。それは、ひとつの壁を越えたということだと、ヘレナにもわかった。

「箱庭の初恋【SS付き電子限定版】」を読んでいる人はこの作品も読んでいます