箱庭の初恋【SS付き電子限定版】
プロローグ / 第一章 (1)

プロローグ
彼がやってくる。
憎い、憎い男が。
白いウエストコートをまとい、金の肩章、青い飾帯を施した姿は、まるで王の後継者のよう。
公女は彼を睨みつけて言った。
「いっそわたしを殺しなさい」
あなたに抱かれるくらいなら、という意味を込めて。しかし彼はいっこうに動揺する気配も見せず、微かに口元を引き上げてこう言うのだ。
「どんなに惨めな境遇になっても、生き延びろというのがお母上の遺言でしたね。それがどういうことかわかりますか」
──どんなに惨めな境遇でも……?
公女はこれまでの日々を思い浮かべた。
父が王妃との姦通罪で処刑された。
子ども心に、父母の愛情は揺るぎなかったので、冤罪だと思う。
やがて王の求婚を断った母も反逆罪で死んだ。
追い立てられるようにして、公女は弟と逃げた。
暗い墓の中で息を潜めて、追手の追跡に耐えた。
足を傷だらけにして、高熱を出して倒れるまで山道を歩き続けた。
見栄えのひどく悪い、粗末な食事も我慢して食べた。
それなのに最愛の弟まで殺された。
来し方を思い浮かべると、彼女の幸せは七歳までに取りつくしたのだと思う。
そして今、白い絹地の夜着に身を包み、淡い薔薇の香りをまとって寝所にいる。
憎むべき男に、純潔を奪われようとしていた。
彼は公女の顎を掴んで仰向かせた。
「それは──たとえ娼婦のように抱かれても、という意味ですよ」
彼は悪魔だ。悪魔は時に美しい人間の姿で現れるのだ。
端正な顔が下りてきて公女の唇を塞いだ。
柔らかい感触に彼女は一瞬身じろいだが、抵抗はしなかった。
そこに、微かな愛情が潜んでいる気がして戸惑う。
彼は顔を離すと、公女の夜着のリボンを引いた。
たちまち胸元がはだけ、薄青い静脈の透ける白い肌が露わになった。
「……あっ」
彼女は小さな子どものように怖気づき、冷気に震えた。
「愛もないのにそんなことができるというの?」
「王の命令であれば何でもします。それとも、ひとかけらの愛情を所望しますか?」
所望、って何。わたしが彼の愛を望むというの?
恐怖をおしのけて、怒りがわいてきた。
「ばかばかしい。あなたなんか、どんなに憎んでも憎み足りないわ。わたしを甘く見ないで! わたしは穢されたりしない、こんなことで」
「それでけっこうです。俺は貴女を──」
男は表情を押し殺した薄紫の虹彩を向けて言った。
「貴女を愛してなど、やらない」
かすれた声を耳朶に残し、彼は覆いかぶさってきた。
第一章
原生林の中にぽっかりと口を開ける石の楼門は、黄泉の国へと通じている。
薄日に照らされ、緑色に煙る大墓地は、内部も王族の棺も、ここから切り出された大理石でできている。
ユーリは頭陀袋を肩にかけて北を目指していた。
希望を抱いてやってきたものの、王都メースには望むものは何もなかった。
乱心した王と怯える民がいるだけだ。
そしてこれから、世にも残酷な政が行われようとしている。
『フリント公爵の子どもを探して連行せよ。公子はその場で殺してもよい。見つからない場合は国中の同じ年頃の子どもを全て捕らえて殺せ』
──ばかげている。
七歳の公女と三歳の公子に、目くじらをたてる理由がわからない。
自分は十四で、その年には該当しないから、逃げるというわけではない。ただ、無意味にここにいるより、ランズベリーの寒村に帰ったほうがましだろう。
あそこには何もないが、まともな人の心は残っているはずだ。
不気味な洞窟は王族たちの墓で、内部は蟻の巣のように複雑だ。
死臭のする岩窟墓地を行くか、遠回りでも陽光を浴びた獣道を行くか。
逡巡したのち、ユーリは墓地の抜け道を選んだ。
森は今、騒がしすぎるのだ。今も、兵士たちの声が飛び交っているのが聞こえる。
「子どもの足だ、そう遠くまでは行くまい」
「そっちにいたか」
「いや、いないぞ」
「出てこい! 出てくれば命だけは助けてやる」
子どもでもわかる嘘だ。
愚鈍な兵が威嚇しながらターゲットを追いつめていく。
手の内をさらしながら、とでも言おうか。
彼らが目の色を変えて子どもを探しているのは、莫大な報奨金と名誉が待っているからだ。
──でも、俺には関係ない。
子どもを殺してまで地位と金を得て何になろうか。
それよりも、自分には縁のない『王族の墓』というものを土産話に見ておこう。
松明に火を灯して、ユーリは洞窟に入っていった。
そこには代々の王の墓が並んでいる。
八百年前のヒンギス王から脈々と受け継がれた王家の血統は、亡きフリント公爵の二人の子どもだけとなった。
他国から婿入りしたバルテル王は、今、それを完全に絶とうとしている。ばかばかしい限りだが、騎士従卒にすぎない自分に何ができるというのだろう。王の暴挙に、ユーリは失望し、城を去った。
故郷に帰れば、また貧乏暮らしが待っているし、こんなふうに王族の墓を見ることも、もうないだろう。
静かだ。自分の足音と、松明の火のはじける音が響く。
亡霊にでも出くわしたなら、それはそれで面白い。
大規模なこの墓地には、いくつかの分岐と地下道がある。
蟻の巣のように複雑な岩窟は、既に兵士たちに荒らされていた。
あちらこちらに配置された大理石の棺の前に、白い塗料で×印が書かれている。
子どもを探したという印だろう。
そうでもしないと見逃してしまうほど複雑なのは確かだが。
×印の並んだ通路の奥で、ふと何か動いた気がした。
蝙蝠なら天井だが、墓石の陰なので、ネズミかもしれない。
ユーリは息を止めて、気配を探った。
目を閉じる。
視界を自ら塞ぐと、死の気配に包まれた。
埃とカビと遺体の匂い。
黄泉の国に息を潜めて立つと、暗闇の中に明確に生の存在が浮き立つのがわかった。
そして彼は、薄紫の目を開き、ある一点を目指して歩き始める。
狙いどおり、『ネズミ』は墓石の陰に隠れていた。
兵士たちの隙をついて、調査済みの×印のついた場所に移動したのだろう。
「おまえは──」
ユーリが話しかけると、憤った声が返ってきた。
「……むこうへいきなさい。あなたに用はないわ」
高慢そうな子どもだ。ユーリの目が闇に慣れてきて、白い塊を捉えた。
これではどこにいても目立ってしまうだろう、カシミヤの白いマントを着た子どもが顔を上げた。バルテル王が探しているのは七歳と三歳の姉弟だが、そこには少女がひとりいるだけだ。
小さな顔にくっきりとした大きな目、暗がりだがその虹彩は青だ。
赤く小さな唇は果実のようにみずみずしい。墓地に気まぐれに咲いた可憐な花かと思うような美しい少女だ。恐怖と警戒心を取り除いたならさぞかし愛らしいだろう。
白い頭巾付きマントの合わせ目には金枠で縁取られたルビーのブローチがついていて、ユーリの松明の明かりに血のような色で輝いている。
ユーリが凝視していると、白いマントがもぞもぞ動いた。彼は腕を伸ばし、マントをめくった。
「やめて!」
──やはり、そうか。
少女と同じ金髪の、おかっぱ頭の子どもが閉じ込められていた。
年の頃は三つか四つといったところだ。
「ヘレナとエドマンドだな?」
ユーリは尋ねた。訊くまでもなかったが。
彼女は答えない。弟の泣き声が漏れないよう、必死にその鼻と口を手で塞いでいたので、弟の顔は赤くなっていた。
「そのまま押さえつけていれば窒息して死ぬ」
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