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園原未久

序章 / 第一章 (1)


   序章


 秋津穂波(あきつほなみ)は、小柄な体を窓ガラスについて、その日恋人になったばかりの男に、後ろから貫かれていた。まっすぐな黒髪が、律動とともに揺れる。男がその髪を一房掴んで唇を寄せると、まるで神経が通っているかのように、ぞくぞくとした喜悦(きえつ)が背筋を這い上った。
「……穂波、つらいですか?」
 気遣う男の声は、深く澄んでいて、どこまでも優しい。背の高い男の身体は(たくま)しく、彼が文化的素養の強い人物だとは、一見しただけではわからないだろう。男は、無駄なくついたしなやかな筋肉を躍動させ、穂波を(むさぼ)る。常の彼を知っている者なら、そのどこか捕食者じみた表情に、驚くに違いない。
「ん……だいじょ……ぶ……です」
 穂波は、眼下に広がる景観を眺めた。街の明かりはその日も煌々と辺りを照らし、明かりを消した室内を白く浮かび上がらせている。彼女の身体もまた、白々とした光を浴びて淡く発光していた。その様がどこか神々しいものに見えて、男が目を細めたのを、彼女は知らない。
「あなたは……平気ですか?」
 訊き返したのは、無垢(むく)ゆえの優しさからだった。男は、いくら責めたてても輝きを失わない彼女を、(まぶ)しいものを見るような目つきで見つめた。
「穂波は……相変わらずですね……」
 男は苦笑すると、背後から穂波の胸を(すく)い上げた。華奢(きゃしゃ)な身体に似合わぬ豊かな感触は、男の情欲を煽る。
胎内(なか)が痛くはありませんか?」
 容赦なく突き上げながら、裏腹な言葉をかける自分に、男は自嘲(じちょう)した。
「ううん……さっきまでより、いい……です」
 その日、初めて男の色に染まった穂波の身体は、刻々と変化していた。彼女が徐々に行為に慣れてきているのは、男にも伝わっている。
 わかっているのに、あえて訊く。
 つらいのに、平気だという。
 焦がれているのに、隠す。
 穂波といると、三十路を過ぎた自身が、いかに様々な感情を押し殺して生きているかを思い知らされる。男は白雪を踏むような行為に溺れながら、己を(わら)う。
 穂波は、健気に蜜を(こぼ)しながら、男の(くら)い欲望を受け止め続ける。その柳腰も、細い肩も、髪の毛の一本さえ自分のものだと、男の中で激しい恋情が渦を巻いた。しかし、そんな感情はおくびにも出さず、まるで幼子をあやすように、彼女に問う。
「穂波は、幸せですか?」
 その問いに、意外なことを訊かれたとでも言うように、穂波は大きな瞳をさらに(みは)った。次の瞬間には、その瞳を悲しげに曇らせて、なにか問いたげに口ごもる。その表情は見えなかったが、聡い男は彼女の逡巡を感じ取った。
「……穂波?」
 問いかけて、ああ、と思った。
 穂波はあの男を気にしているのだ。彼女に真摯(しんし)な思いをぶつけて、恋に破れた青年を。一歩間違えば、それは今の彼女自身の姿だったかもしれず、心を砕くのも、無理がないことだと思えた。
 男は、穂波を安心させるように、言葉を選んだ。
「彼にはあとで、私からも謝っておきます。私が……少し強引すぎましたね」
 その言葉に、穂波は微かに安堵したようだった。
「……ありがとうございます」
 そう言って笑う姿は、咲き初めの花のように美しい。
 花は野にあるように……。
 そのようにすれば摘んでも構わない。裏を返せばそういうことだが、野に咲く花を摘んでしまった自分には、いつか罰が下る気がする。
 男は、胸に去来する思いを振り切るように、最奥を穿(うが)った。穂波の柔らかな肢体が波打つ。
「あっ……あぁ……ぁんっ!」
 一度達した穂波は、肩で息をしている。そんな彼女を労わるように、浮かんだ肩甲をなぞった。彼女は、快楽の余韻を引きずったまま、甘える猫のように身を任せている。
 男に幸せか、と問われた。
 幸せだと、答えるべきなのだろう。しかし本当は、幸せとも、不幸せとも思えない。
 ただ、わずかな時間、男を独り占めしていられることは幸せだった。
 穂波は、浅い呼吸を繰り返しながら、力強い律動を刻む男のことを思った。本当なら、自分がこうしているだけでも、おこがましい相手である。穂波は、向こう見ずにぶつけてしまった恋情が実を結んだことを、未だ信じられずにいた。相手は、大人で、自分のような小娘には不釣り合いだと、自分でもわかっている。
 それでも触れたい。
 温かい胸に包まれたい。
 優しい言葉を紡いでほしい。
 穂波は、自分の中に巣食う恋心が折れたとき、自分がどうなってしまうのか空恐ろしく感じた。
 闇に浮かぶ女も男も、それぞれの慕情に身を焦がしていた。

   第一章


『畳の縁を踏んではいけないよ』
 穂波(ほなみ)は、デスクワークの合間に、ふと祖父の言葉を思い出していた。梅雨の合間の青空からは、少し湿り気のある風が吹き込んでくる。気まぐれにデスクに活けた額紫陽花(がくあじさい)が、ふわりと揺れた。
 穂波の祖父は、長男ではなかった。
 時代のせいもあったのだろう、年若い頃には、さる茶問屋に養子に出されていたようだ。やがて戦争がはじまり、祖父は軍の学校に召集された。全寮制の士官学校において、成績優秀者として迎えられた祖父は、自分より若輩の少年たちが身の周りの世話をしてくれる優遇された環境を、どこか居心地悪く感じながら、日々を過ごしたそうだ。周りの後輩たちに申し訳なかった、自分は恵まれていたと、後年、今際の際にぽつりとそう零した。
 祖父がそうして若かりし日々を過ごすうちに戦況はどんどん悪くなり、ついに戦地に出ないまま、日本は終戦の日を迎えた。祖父は養子に出された茶問屋ではなく、直接本家に呼び戻されると、すぐさま近隣のとある旧家に婿養子として縁付くことになった。
 祖父が結婚したあと、家の米や野菜は、会社勤めの(かたわ)ら、家族総出で(まかな)った。暮らし向きは決して楽ではなかったが、やがて二人の男の子供に恵まれることになり、そんな生活も三十五年も越えた頃、家に残った長男に生まれたのが、兄と穂波の二人の孫だった。
 祖父は晩年、土地の区画整理でうまくやりくりした資金を元手に、細々と茶碗や茶道具を集め始めた。幼い頃を過ごした茶問屋に対する郷愁か、それともただの道楽か、穂波が物心ついたときには、ひととおりの道具を揃え、和室で独り茶を点てている祖父の姿を、たびたび目にすることとなる。
「おじいちゃん、なにをやっているの?」
「穂波か。今ちょっと忙しいから、遊ぶのはあとにしておくれ」
 茶を点てはじめると、祖父はなかなか穂波の相手をしてくれなかった。和室に不用意に立ち入ることも、無言のうちに拒絶する空気を(まと)っていた。
 いつものように祖父が茶を点てていたある日のこと、悪戯に和室に踏み入ろうとした穂波に祖父が発したのが、(くだん)科白(せりふ)である。彼女は、たったその一言だけで、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまい、祖父に不用意に近づくことができなかった。
 なんでこんなときに思い出すのかな……?
 散らかったデスクの上を申し訳程度に片づけると、穂波は頬杖をついて祖父の思い出を反芻(はんすう)した。
 祖父が亡くなったのは、穂波が中学三年生になった頃、まだ十四歳のときだった。祖父の残した茶道具は、日ごろから折り合いの悪かった父ではなく、母がこっそり手入れしているのを、彼女はたびたび目にしていた。それも、短大に進学し、実家を出た十八歳の頃までの思い出だ。

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