小夜啼鳥恋夜~甘い蜜の檻~
第一章 睡蓮と沈黙の皇太子 (3)
瑛璋が静かな口調で言った。明貴が他の数人の従者を引き連れ寧々の傍に駆け寄ってきて大広間から連れ出そうとする。
寧々は激しくかぶりを振って拒絶を示した。
(私は洛国を去ることはできないの! 絶対に)
「どうぞこちらに」
と先ほどより強い口調で明貴が言って、寧々を強引に連れていこうとする。
しかし一瞬の隙を縫って寧々は明貴の脇をすり抜け瑛璋に駆け寄った。
「止まれっ!!」
明貴の諫める声が背中にぶつかってくる。寧々は足を緩めない。だが足がもつれ盃をあおる瑛璋の足元に倒れ込む。
瑛璋が喉を鳴らしながら酒を飲み干した後、何の感情も籠らない視線を投げつけてきた。
寧々は急いで胸元に手をやった。瑛璋と会話をするための『声』がそこに入っている。
緊張でもたついていると、追いついた明貴に後ろから手を取られた。
「お前、やはり礼璋様が送ってよこした刺客か! 瑛璋様から離れろ!!」
(な、何?)
明貴が寧々の背後に膝立ちになり、寧々の両腕を摑んで背中にぐっと回させる。瑛璋に胸を突き出すような格好になった。
「もうその辺にしておきなさい。こんなのが襲いにきたところで私はかすり傷一つ負いはしないよ」
「しかし、胸元に手を入れ怪しい動きをしていました」
(それは違うわ。私は瑛璋様と話がしたくて……)
寧々が明貴に押さえつけられたまま違う違うと全身を使って左右に振る。
別の従者がやってきて寧々の胸元に手を入れようとした。
寧々の喉がヒュッと鳴り、たちまち目に涙が浮かぶ。
「今にも泣きださんばかりの顔をするなんて初々しい刺客だな。普通暗器を取られそうになったら青ざめるものなのに」
瑛璋の口元に見下したような笑みがうっすらと浮かんだ。
暗器とは小刀や針など、衣服の下に隠せるほどの小さな武器のことを言う。小さくても急所を狙ったり、先端に毒を塗ったりすれば非力な女性でも使えないことはないが、寧々は歌で人の心を癒すテェルキエの小鳥だ。刺客だなんてあり得るはずがない。
あまりの誤解に寧々の目から涙が一筋すうっとこぼれていく。それをじっと見ていた瑛璋は、
「……やめなさい」
寧々の胸元に手を入れようとしている従者の手がぴたりと止まった。
「しかし、刺客の線は拭い去れません」
「疑り深いね、私の従者たちは」
「当たり前です、瑛璋様! これまであなたが皇都でどんな目に遭われてきたか」
「ああ。わかったわかった」
やれやれというように首を振った瑛璋は寧々の身体に手を伸ばしてくる。
明貴が瑛璋の傍にぐっと寧々の身体を突き出した。
(嫌っ)
寧々は逃れようと身体をそらせたが、それがますます胸を突き出すような格好になってしまった。
瑛璋の手がしなやかにラサ・フィンデルの中に滑り込んでいく。
(……怖い)
しかし硬直する身体を触り始めた手つきは思いのほか優しかった。冷たい指先がふっと寧々の肌に触れ滑り落ちていく。
「これか?」
駆けたり暴れたりして胸の下まで落ちてしまった寧々の『声』を瑛璋は探し当てた。取り出して確かめた薄く笑う。
「見ろ。矢立と短冊だ。これでどうやって私を殺そうと?」
矢立は筆と墨壺が一緒になった筆記具のことだ。寧々のは真鍮製で小鳥の飾りがついている。短冊は白一色では味気ないと思い、瑛璋の目を楽しませるために色とりどりのものをテェルキエで用意してきた。
「テェルキエの隠し武器かもしれません。矢立には針や刃を仕込むことも可能ですから。瑛璋様、貸してください。確認します」
「その前に放してあげなさい」
明貴が矢立を瑛璋から受け取ると同時に寧々は解放された。初めて経験した男性の力強さが恐ろしくガクガクとした震えがやってくる。
受け取った矢立と短冊を、明貴と他の従者たちが上下に何度もひっくり返しながらじっくりと見ていた。どう見てもただの矢立と短冊なのに呆れるほど疑り深い。
寧々は調べる彼らに手を伸ばした。
「返せということかい?」
瑛璋が聞いてきて寧々は頷く。それでも従者たちはしつこく調べていたが何の武器も隠されていないとわかると渋々寧々に『声』を返してきた。
やっと『声』が戻ってきて寧々は色とりどりの短冊の束の中から青いものを選んで文字を書いた。テェルキエの文字と洛国の文字は似通っている。だが瑛璋が手元をじっと見つめてくるので、達筆と褒められる寧々の文字は酷く乱れていた。
『初めまして。私は小夜啼鳥の寧々と申します』
何とか書き終えて短冊を差し出すと瑛璋が不思議な顔をした。
「君は歌詠いなのだろう? なぜ筆談なんだい?」
寧々はまた短冊に文字を書きつける。
『小夜啼鳥は歌うとき以外声を出しません』
短冊を受け取った瑛璋の瞳の色が変わる。とても驚いたようだ。だがそれも一瞬だった。
「ならば歌ってごらんというのが歌詠いに対しての礼儀なのだろうが私は歌は嫌いだ。明貴、後を頼む」
と言って立ち上がる。
(そんな。お願い。少しだけでも)
後を追いかけようとする寧々の肩を明貴が摑んだ。
(お願い! 聞いて!!)
寧々は虚空に手を伸ばすが、瑛璋の背中は遠ざかって行く。傍に行こうとする寧々を明貴が羽交い締めにした。
(このまま瑛璋様から引き離されたらテェルキエが……)
頭が真っ白になる。
(どうしたらいいの? 私にできるのは歌うことだけなのに、肝心の瑛璋様は歌はお嫌いとおっしゃった)
必死に頭を巡らせる。花瓶が目に入った。白や桃色のたくさんの花が活けられている。
(テェルキエの小鳥は人の興味を引くために能力を利用してはいけないのだけど……)
しかしもう迷ってはいられなかった。瑛璋は大広間を出ていきかけている。
すっと息を吸い込むと小さな胸が小鳥のように膨らんだ。
可憐な唇がきゅっと引き締まり、やがて開けられた隙間から美しい歌が奏でられ、最初小さかった声は大広間全体を覆い尽くすほど大きくなっていった。
テェルキエに古くから伝わる男女の『出会いの歌』。なぜその曲を選んだのか、寧々は自分でもわからない。ぱっと思いついたのがその曲だった。
「……花が」
明貴が寧々の後ろで信じられないという声を上げた。傍にいた従者たちもどよめく。
花瓶の花が綻び始め大広間に甘い匂いが漂い始めたのだ。たちまち花瓶の中の花は満開になり、まるでそこだけ春の精が魔法をかけたかのようになった。
寧々は必死になって瑛璋の背中に向かって歌声を投げかけ続けた。
(お願い。瑛璋様。いなくならないで!)
寧々の願いは通じた。瑛璋がゆっくりと立ち止まる。咲き綻んでいく花たちを眺めている。そして振り返った。寧々を見る顔は相変わらずの無表情だ。しかし花瓶の花に手を伸ばし花びらをゆっくりと優しく撫でた姿を見て、寧々は身体に妙な痺れを覚えた。
瑛璋が大きく咲いた花を花瓶から一輪引き抜いてそっと口づけた。茎の部分を持ってクルクル回しながら寧々を興味深げに眺めている。見つめる目が先ほどよりほんの少しだけ優しくなっていた。
「瑛璋様! 早く逃げてください。歌声で花を咲かせるなんてこの女は魔物に違いありません」
従者の一人が叫んだ。だが、クククっと喉を鳴らして瑛璋は笑っている。
「何が可笑しいんですか? 瑛璋様! 早く逃げて……」
瑛璋は従者の言葉を遮る。
「本当にこのような不思議な人間が存在するとは」
「……瑛璋様?」
「西の国には天上の歌を奏でる人間がいて自然さえ虜にすると聞いたことがある。それがこの泣き虫娘とは」
────こんなに笑ったのは久しぶりかもしれないな。
呟いた瑛璋はふいに「明貴」と声を張った。
「高殿に酒の用意を。飲みなおしたい」
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