契約花嫁~王太子の甘い罠~

麻生ミカリ

第一章 イジワル王子の甘い誘惑 (3)

 エルズモンド王国において、襲爵は男児にのみ認められた権利だ。四人の娘に恵まれたウィルネリア侯爵だが、いずれその爵位は(おい)に譲られる。直系の息子を持たない貴族は、近い血筋の男系親族から養子を迎えるのだ。
 ――もう一度、あの人に会いたい。あの人の声が聞きたい。
 四年前、エイダの結婚式でほんのわずかな時間、リヴェットのそばにいてくれた男性。
 名前も顔も知らない彼の声は、今も彼女の記憶の中で幾度(いくたび)も甘く響いては、胸をほのかに熱くする。忘れることはない、優しく慈愛に満ちたやわらかな声音。
 だが、リヴェットは彼の素性を知らない。エイダの結婚式に招待されていたのだから、貴族か資産家の息子かもしれない。月光を紡いだごとき銀髪と、特徴的な甘美な声は、じゅうぶんに彼の目印になる。
 ――あんなに優しい方ですもの。きっと今ごろは、美しい婚約者がいらっしゃるに違いない。そうでなくとも、わたしなんかを望んでくださるはずがないわ。
 再会できたところで、彼が自分を覚えているとは考えにくい。おそらく相手にとってリヴェットとの出会いなど、記憶するに足りない他愛(たあい)ない出来事だった。
 どれくらいそうしていただろう。四阿(あずまや)の大理石の椅子に腰かけていた彼女の耳に、馬の(いなな)きが聞こえてきた。それを追いかけるように、石畳を走る車輪と(ひづめ)の音。
 そこでリヴェットは、はたと現実に立ち戻る。
「いけない! 今日はお姉さまたちがいらっしゃるのだったわ」
 父であるジョージ・ティンダルが、親しくしている貿易商から海外の稀有(けう)な紅茶の茶葉を購入したのは先週のこと。嫁いだ長女と次女を招いて、今日はウィルネリア侯爵邸で久々に家族そろってのお茶会が催される。
 馬車でやってきたのはメイベルか、それともエイダか。どちらにせよ、昼食前には嫁ぎ先からこちらへ到着予定だと聞いている。
 朝食後の軽い散歩のつもりが、気づけばずいぶんと中庭に長居してしまった。リヴェットは立ち上がるとドレスの裾を両手で軽くつまみ、屋敷へと続く散策路を急いで戻る。
 庭木の緑は色を濃くし、(きた)る夏を全身で享受していた。春の名残の花が風に揺れるなか、リヴェットは胡桃色の髪をなびかせて屋敷へ急いだ。
 願ったのは、ただ一度助けてくれた彼との再会。
 彼女は、初恋のほのかな甘さとせつなさを胸に青空の下を歩いていく。

◇ ◇ ◇

「――ということで、来週の火曜日にロイ殿下がいらっしゃることになった。メイベル、エイダ、嫁にいったおまえたちに頼むのは気が引けるのだが、ダイアナを美しく見せるドレスを見繕ってもらえないだろうか?」
 外庭に面した一階の応接間で、ウィルネリア侯爵はいつもと変わらぬ明るく響く声でそう言った。かしましく紅茶の品評や最近の流行のドレスについて語り合っていた長姉と次姉は、同時に言葉を失い、次いで顔を見合わせる。
 無理もない。侯爵が口にした来訪者の名と、そのあとに続いた文脈から、彼が何を言わんとしているのかは明白だった。
 そもそもエルズモンド王国の国民ならば、ロイ殿下と聞いてそれが誰のことかわからぬ者などひとりもいない。その目で見たことはなくとも、ロイ・エルズモンドについての噂は誰もが知っていた。
 一目見れば心を奪われ、声をかけられれば耳が(とろ)け、近づこうにも三歩と歩かず腰が砕ける。女性たちは冗談まじりでそう評している。こよなき美貌の王太子は、結婚を控える令嬢たちの憧れの的だ。まして見目麗しいのみに限らず、ロイは聡明(そうめい)で慈愛に満ちた男性と聞く。
「お父さま、まさかとは思いますが、ダイアナをロイ殿下に嫁がせようなんてお考えではありませんわよね?」
 最初に声を発したのは長女のメイベル。豊かな金髪をゆるく結いあげて、流行のドレスに身を包む彼女は、二十歳上の公爵と結婚してふたりの子どもに恵まれた今でも、かつて社交界の『美と愛の女神(アフロデイテ)』と賞賛された色香漂う美貌になんら変化を感じさせない。それどころかいっそう成熟した美しさが彼女を彩っていた。
「メイベルお姉さま、いくらお父さまでもまだ五十二歳です。耄碌(もうろく)される年齢ではありません。そのような身の丈に余る、無謀なことを、夢にもお考えのはずがありませんわ」
 姉と同じくきらびやかな金髪を編みこみにして、後れ毛一本も乱さぬ完璧さを感じさせる次女のエイダが、本気とも冗談とも判別しがたい冷静な声で言う。泰然自若としたさまでテーブルの上のティーカップを持ち上げるエイダですら、わずかな動揺が感じられるほどだ。夫である侯爵の仕事を手伝い、ワイナリー経営でも手腕をふるう彼女は、優れた知性と常なる理性から、貴族の集う場では『法の女神(テミス)』とひそかに呼ばれていた。
「残念ね、エイダ姉さま。父さまは耄碌(もうろく)したからこそ、私をロイ殿下に嫁がせようとしているのよ。そうでなければ、何度もお願いしているあの件を忘れて、勝手に縁談を持ち込むはずがないもの。そうよねえ、リヴィ?」
 次いで口を挟んだのは、三女のダイアナ。彼女こそが、ウィルネリア侯爵が王太子妃にと考えている娘だ。
 姉妹の中でもっとも活発で、革新的な考えの持ち主のダイアナは、二年前に社交界デビューを果たした。気の強そうな美女は、当初から青年たちの噂の的である。近づく者を一瞥(いちべつ)する視線の威力に誰もが魅了され、ダイアナを屈服させる日を夢見て求愛は今なおとどまるところを知らない。
 結果、ダイアナは『戦いの女神(アテナ)』という、貴族令嬢としては名誉なのか不名誉なのか悩ましいあだ名を得てしまった。いまだ負け知らず、連戦連勝の女神だ。
 黙って姉たちの話を聞いていたリヴェットは、少し困ったように首を傾げる。
「お父さまにはきっと、何かお考えがあるのではないかしら。それとも殿下が直々にダイアナお姉さまをご所望なのかも……」
 そう言いながらも、末妹はダイアナがなぜ並み居る貴族令息たちの求婚を断っているのか、その理由を知っていた。だからこそ、父の真意を確かめようとしたのだ。
「おお、リヴィ。おまえの言うとおりだよ。殿下はこのウィルネリア侯爵家の娘をぜひにとご所望なのだ!」
 やっと自分の味方が現れたと思ったのか、侯爵は芝居がかった歓喜の表情でパイプを手に天を仰ぐ。しかしそこにあるのは青空ではなく、海外から取り寄せた職人技の光るシャンデリア。神に感謝するには、いささか舞台が整っていなかった。
「ウィルネリア侯爵家の娘ということなら、私かどうかわからないわ。殿下はリヴィをお望みかもしれないじゃない」
 ツンと顔をそらし、ダイアナが窓の外に視線を向ける。この段になって、長女と次女はなにゆえ自分たちがお茶会などという名目で、実家に呼ばれたのかを悟った。
「ダイアナったら! お相手は王太子殿下なのよ? なんて羨まし……コホン、いえ、なんてありがたいお話かしら。喜んでお受けするべきだわ」
 メイベルは、できることなら代わりたいとでも言い出しそうな表情で勝ち気な妹に言い聞かせる。貴族の家に生まれた娘ならば、王家からの縁談は最高の誉れだ。
「だったらメイベル姉さまが結婚すればいいわ。わたしは絶対お断り!」
 今にも席を立って話を打ち切りそうなダイアナを、エイダが無言でじっと見つめる。氷のまなざしに、それを見守るリヴェットのほうが「ごめんなさい」と謝りそうになった。
「エイダ姉さまが、そんな目で見たって無駄よ。絶対に殿下と結婚なんてしないから!」
 やれやれと侯爵がパイプを口元から下ろす。

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