契約花嫁~王太子の甘い罠~

麻生ミカリ

第一章 イジワル王子の甘い誘惑 (2)

 おそるおそる顔を上げようとした彼女の頭を、ぽんぽんと彼が優しく()でる。突然の出来事にびくりと肩がすくみ、リヴェットはまたしても地面に視線を落とした。
 けれど、その一瞬――。
 視線を上げた先には、美しい銀髪が太陽の光を浴びて輝いているのが見えた。
「レディが遠慮なんてするものではないよ。それに、僕は女性の泣き顔を人前にさらすほど野暮(やぼ)じゃない。怖がらなくていいんだ。このまま僕に寄り添って歩いていれば、誰にも気づかれずにすむのだからね」
 少年と呼ぶには大人びた色香を感じさせ、青年と呼ぶには甘く軽やかな響きを残した、耳に心地よい彼の声。
 リヴェットを優しく気遣うその人は、白バラのアーチをくぐって花婿の所有する屋敷まで案内してくれた。先ほどまでの劣等感は薄れ、いつしか少女は肩にまわされた男性の腕のぬくもりに心を支配されている。どうしてこの人はこんなに親切にしてくれるのだろう。姉たちとは違って、美しくもない自分なんかに――。
 今まで感じたことのない胸の高鳴りと、この上ないほどの頬の紅潮に、涙は引っ込んだもののリヴェットは顔を上げることなどできなくなっていた。
「さあ、ついた。足首をひねったりはしていない?」
「は、はい。平気です」
 あなたが助けてくれたから――。
 そう言いたかったけれど、喉までせり上がる緊張で声がみっともなく震えてしまう。
「良かった。次からは、駆け出すときにはよく前を見てね」
 涙の理由を問うでもなく、彼はもう一度ぽんぽんとリヴェットの頭を撫でる。
「あの……、これを……っ」
 真っ赤になってうつむいたまま、彼女は胸に抱いていた花籠を差し出した。
 ブライズメイドが花籠を贈るのは、エルズモンド王国内では意味のある行為だったが、当時の彼女はそんなことを知る由もなかった。なにせ、初めての結婚式参加だったのだ。
「……これを、僕に?」
「助けてくださったお礼に、よろしければ……」
 男性はしばし逡巡(しゆんじゆん)したように押し黙る。その沈黙が、リヴェットをいっそう緊張させた。
 もしかしたら、こんなものをもらっても彼も困るのだろうか。もしかしなくとも、困るに違いない。バスケットなど持っていては、ダンスの邪魔になるだろうし、それでなくとも正装した男性が花を持っているなんておかしなことだ。
 ――ああ、わたしの考えなし! どうしてこんなものがお礼になるなんて思ったの?
 けれど、差し出したものを引っ込めるのもどうなのだろうか。今さら、やっぱりあげません、と言えるものでもない。
「ありがとう。次に会うときは、泣き顔だけじゃなくて笑顔も見せてほしいな、リトルレディ」
 両手からバスケットの重みが消える。顔を上げかけたリヴェットの前髪に、かすかに彼が唇を寄せた。家族と交わすおやすみのキスとは、何かが違う。そう思って、少女は高鳴る胸に両手をあてた。考えずとも、家族や親戚との挨拶以外でキスをしたことはない。
 これはリヴェットにとって、生まれて初めての異性との交流なのだ。
「こちらこそ、ありが……」
 やっとのことで彼女が顔を上げたとき、すでに彼は人々の集まる場所へ戻っていくところだった。
 (りん)とした後ろ姿と、長い手足。(つや)やかな髪は、まごうことなき銀色で。
 今となっては名前も知らない、甘やかな声のみが耳に残る、思い出の人――。
 彼の声はいつまでもいつまでも、幼い少女の鼓膜に甘く残っていた。

◇ ◇ ◇

 豊かな緑に囲まれた白亜の(やかた)を、初夏の陽射(ひざ)しが(まぶ)しく輝かせる。
 気の早い虫の音が鼓膜を軽やかに揺らし、その声に耳を澄ませるようにして、リヴェット・ティンダルは長い髪を耳にかけた。赤みがかった胡桃色の髪は、やわらかに波打って華奢な背中を覆っている。
 屋敷の中庭にある四阿(あずまや)で、彼女はそっと自らの髪を一房(ひとふさ)手にとり、太陽の光に透かしてみる。何度見ても、髪色が変わるはずはない。わかっていても、ついそうして自身の髪を確認するのが彼女の癖だ。
 幼さの残るやわらかそうな頬、目尻の下がった大きな深緑の瞳、小ぶりながらも形の良い唇は朝露に()れた薔薇(ばら)の花びらを思わせる、たいそう愛らしい容姿を持ちながら、リヴェットは自分の外見に劣等感をいだいていた。
 近隣一帯を治めるウィルネリア侯爵ジョージ・ティンダルの末娘として生まれたリヴェットは、幼くして母親を亡くした。彼女の記憶に母の姿はない。けれど、優しい父と三人の美しい姉と、多くの侍女たちに囲まれ、リヴェットは何不自由なく暮らしてきた。母を(うしな)った姉妹は、そのぶん結束も強く互いを慈しみあっている。リヴェットにとって家族はかけがえのない存在であり、この屋敷は幸福の象徴でもある。
 だが、彼女は自分の髪の色を確認するたび、ため息をつきたくなった。
「……わたしもお姉さまたちのような金髪だったら、もう少し見栄えもしたのかしら」
 若くして亡くなった母は眩しいほどの金髪の持ち主で、姉三人は母によく似た美しい髪色をしている。もとより引っ込み思案で内気なところのあるリヴェットにすれば、自分だけが受け継がなかった金髪は、母の美貌も同様に感じられた。
 先月、十七歳の誕生日を迎えた彼女は、次の冬に社交界デビューを控えている。多くの貴族令嬢たちは、美しい白のドレスを身にまとい、上流階級にのみ許された舞踏会に足を踏み入れる日を心待ちにするという。
 けれど、リヴェットはその日を迎えるのが不安で仕方がなかった。
 今年二十四歳になる長姉メイベルが社交界にデビューしたのは、今から八年前のこと。
 亡き母は、かつてエルズモンド国の金の薔薇と(たた)えられたほどの美女だったが、その忘れ形見である姉たちは皆、社交界にデビューするや、多くの男性を魅了してきた。
 メイベルは十七歳の若さで国王の覚えもめでたい二十も年上の公爵に求婚され、次姉エイダは十八歳の誕生日に国内有数のワイナリーを所有する侯爵と結婚した。三番目の姉のダイアナは去年社交界デビューを果たしたが、縁談を渋っては父を困らせている。
 ウィルネリア侯爵邸には、ダイアナ宛の招待状が連日、山をなすほど届く。舞踏会、観劇、避暑地、競馬と、行き先や目的は違っても、そのどれもが美しいダイアナとの縁を欲する紳士からのお誘いだ。
 ――きっとわたしが社交界に赴くようになっても、誰も見向きしてくれないわ。お姉さまたちが舞踏会の花ならば、わたしは壁の花ですもの。
 早産だったせいか、リヴェットは体が丈夫ではなかった。それもあって、敷地内から出ることも少なく、世間知らずに育った傾向がある。くわえて三者三様の美貌と、強い個性の姉たちを見てきたからこそ、自分を凡庸、あるいはそれ以下だとしか思えなかった。
 遠くの空を群れをなす鳥が飛んでいく。リヴェットはそれを見上げて小さく息を吐いた。
『ウィルネリア侯爵家の美しい四姉妹
 いまだ表舞台に顔を出さないリヴェットをよそに、(ちまた)では誰もが口をそろえて美貌の姉妹を(うわさ)する。ウィルネリア侯爵家にそれほどの権威も財力もなくとも、美しい令嬢を夫人に求める貴族は多い。そして、リヴェットから見ればその噂に(たが)わず姉たちはそれぞれ三者三様の美しい淑女なのだ。
 たしかに大人びた美しき姉たちとリヴェットはあまり似ていないのだが、彼女はじゅうぶんに愛らしくかわいらしい顔立ちをしている。父である侯爵も姉たちも、そして侍女たちもそれを幾度となくリヴェットに言って聞かせたが、いかんせん本人の目にはそう映らないらしい。

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