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蜜檻~騎士王のいきすぎた純情~

水瀬もも

【第一章】 (2)

 狡猾(こうかつ)で欲深いエウリア国王は思うままに国を操り、実の息子たちにさえ政治には一切口出しを許さなかったが、ここ数年はめっきりと老け込み、病がちだったことを思い出す。
 自慢の軍隊もすっかり統率が取れなくなり、兵士の中には寝返って反乱軍に投降する者も多いという事実を、シグリットは知らない。
「もちろん、真っ先に逃げ出したわ。馬車に積み込めるだけの財宝を積み込んでね。王太子様や他の王族方も。王宮にはもう王族は誰一人残っていないわよ、きっと」
 フーシェルが皮肉たっぷりに吐き捨てる。
 大神殿で管理する貴重な薬草の利益を独占し、好き放題に放蕩(ほうとう)を重ねてきたので、エウリアの民のほとんどは王族に対して懐疑的(かいぎてき)だ。大神殿務めのフーシェルも例外ではない。
 そういう情報も一般的に常識だとされているようなことも、世間知らずのシグリットはすべてフーシェルから教わった。大神殿で教えられたことは神事と礼儀作法、あと薬草に関する専門的な知識のみだ。
 他のことは多分、赤子のように何も知らない。
「エウリアの軍隊は数刻ももたずに逃走したそうよ。まったく、普段から威張(いば)り散らしていたくせに、いざとなったら情けないったら」
 フーシェルは王都の大家族に生まれたせいか、シグリットと同じ年だというのに世慣れている。そのことがシグリットは(うらや)ましい。
 生まれてすぐに大神殿に引き取られたため、シグリットには両親の記憶も温かな家族の記憶もない。ただ両親は、最後までシグリットを取り上げられることに反抗したとだけ聞いている。その後、両親の消息は掴めていない。
「では、王宮はもうイーリーンの手に落ちたの? 王族以外の、侍女や使用人たちは安全なところに逃げられたかしら」
「ほとんどの人間が無抵抗で投降したし、軍隊の兵士も大半がこちらに寝返ったって、王宮勤めの友達から聞いたわ。イーリーンの兵士たちも、抵抗しなければ手荒なことはしないと言っているらしいし。でも、シグリットは別よ。早く逃げないと」
 一般市民なら大丈夫かもしれないが、シグリットはエウリア大神殿の頂点に立つ巫女姫である。
 そのために、王宮の知己(ちき)からの知らせを受けたフーシェルはシグリットのもとに駆けつけてきたのだ。
「シグリットが捕らえられたら、どんな目に遭わされるかわからないわ」
 退廃していた王族と違い、シグリットはエウリアの民からの尊敬と親愛を一身に集めている。神眼の巫女姫の影響力は、多分シグリット自身が考えているよりもはるかに大きい。
 王族以外の人間が大神殿に行くことを禁止された後も、貴重な薬草は少しずつ少しずつ折りを見て、確実に民の手に送り届けられてきた。
 病に苦しむ民の家庭には、用い方や煎じ方をわかりやすく丁寧に記した紙とともに、かなりの額の金品が添えられていることも少なくなかった。その手はずを整えたり、実際に薬草を運んだりしたのは、フーシェルとその家族たちである。
 名も告げずに優しい心遣いをしてくれるのが誰なのか、エウリアの民は皆きちんと知っている。
 フーシェルはシグリットの手を掴み、小走りに走り出す。
「王宮から大神殿への道筋は森に挟まれて隠されているから、案内役がいないとすぐには来られないわ。今のうちに逃げて。薬草園の中にある隠し通路を通って一度王都に出てしまえば、シグリットに味方してくれる人はいっぱいいるから」
 フーシェルが慌てている理由はわかった。
 シグリットは足を止める。
「ごめんなさいフーシェル。わたくしは、逃げないわ」
 何を言っているの、と問い返すよりも先に行く手にひとりの青年が現れ、フーシェルははっと息を呑んだ。
 一瞬戸惑ったように視線をさまよわせてから、急いで縞模様のドレスの(すそ)を掴み、膝を折る。
「サリム王子殿下……! もうお逃げになられたはずでは……!」
 下働きの少女が王族の顔を真っ正面から見でもしたら、無礼討ちにされかねない。
 シグリットはさりげなく、膝を地面につけて小さくなったフーシェルを(かば)う位置に立った。
 神眼を持つ巫女姫は、国王以外の誰にも膝を折る義務は課せられていない。
 サリム王子は目もとの涼やかな顔立ちで、王宮内では美貌を褒め称えられてきた青年だ。
 茶色く見えるほど色の濃い癖のある金髪に緑色の双眸(そうぼう)のこの王族の青年が、シグリットは以前からあまり好きではなかったので、王族が出席する神事の際にもできるだけ顔を合わさないようにしてきた。
「神眼の巫女姫。どうやらその顔は、事情を聞き知っているらしいですね。それなら話は早い」
 巫女姫の(なら)いで王族といえども口をきいたことはなかったが、用事もないのにたまにふらりとやってくるサリム王子は、フーシェルたち下働きの人間を邪険に扱ったり散々にこき使ったり、何かと横柄(おうへい)な態度を貫いているので評判も(かんば)しくなかった。
 好き放題した挙げ句に威張り散らすわがままな男には、たとえ王族であっても好意など持てない。
 サリム王子が高慢に手を差し伸べる。
「今は説明している時間が惜しい。一緒に来て頂きましょう」
 シグリットは怖気(おぞけ)に身を震わせた。
 サリム王子がことあるごとに向けてくる、この()めるような視線も不快だった。驕慢(きようまん)横暴(おうぼう)な物腰とあいまって、どこか蛇に似ている、とシグリットは思う。
「お離しください! 何をなさいます!」
 手首を遠慮のない力で掴まれ、シグリットは非難した。
 シグリットは男性と口をきいてはならない。
 サリム王子はシグリットに触れてはならない。それがしきたりだ。
「御自分が何をなさっているのか、わかっておいでですか!?
 シグリットの毅然(きぜん)とした抗議を、サリム王子は鼻で笑い飛ばした。
「わかっているも何も。非常事態なのですよ、巫女姫。普段は警備が厳重すぎて手も出せなかったから、俺にとっては逆に好機ですがね」
「何を、おっしゃっているのです……?」
 サリム王子は、シグリットに説明するつもりなど毛頭ないらしかった。
 シグリットはできる限りの力を込めて(あらが)う。
「ともかくその手をお離しください!」
「王都まで出る。そこからは馬車を都合します。粗末な安馬車だが、少し我慢してください。どうせすぐここに戻ってくることになりますよ」
「サリム王子殿下、神眼の巫女姫に何をなさいます! 人を呼びますよ!」
 フーシェルが果敢にも食ってかかる。
 とっくにイーリーンの兵士たちに占拠された王宮と違い、大神殿にはまだ人がそっくり残っている。これだけ大きな声を上げていれば、誰かが聞きつけて飛び出して来てもおかしくはない。
「俺に刃向かうとは……許し難い。下女の分際で生意気な」
 次の瞬間、小柄なフーシェルの身体はそばの東屋(あずまや)の大理石の柱に叩きつけられた。サリム王子が、遠慮のない力で平手打ちにしたのだ。
「きゃああ、フーシェル!」
 フーシェルは力なくその場に崩れ落ちた。目を閉じてぐったりとしている。
 頭を打ったのかもしれないと、シグリットは咄嗟(とつさ)にサリム王子の手を振り払ってフーシェルに駆け寄った。

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