逃亡花嫁と愛執王子~きみのために鐘は鳴る~

麻生ミカリ

第一章 追憶の婚約者 (2)

 苦々しい表情で、フレディは不愉快そうに眉根を寄せる。
 ダーレン・エルマンはエッジワースで金貸しを営む青年だ。三十路(みそじ)前だというのにこの近辺の大半の土地を所有しており、あくどい手を使って稼いでいると言われている。
「おまえさん、何もされちゃいないだろうな」
 フレディが心配するのも無理はない。
 金にあかせて女をもののように扱い、次々と手を出しては気が済めば鼻をかんだあとのちり紙のように投げ捨てる――。
 ダーレンは、女癖の悪さに関しても悪評高い男だった。
「ええ、だいじょうぶよ。わたしは顔も合わせてないわ」
 そんなダーレンが、ロッツブレッドの看板娘ニーナを最近いたくお気に入りなのは有名な話だ。豪華な贈り物を届けたり、手下たちを十人も連れて来店したり、あの手この手でニーナを誘い出そうとしてきている。
「あの男だけは信用しちゃいけないぞ、ニーナ。おまえが素直で心根の優しい娘なのは知っているが、誰にでも情けをかけるもんじゃねえ。特にああいう(やから)にはな」
 フレディの友人の娘も、ダーレンに無理やり関係を迫られ、挙げ句用が済んだのちにはお払い箱にされたと言っていた。娘のようにかわいがっているニーナが同様に扱われることを、フレディとベッキーは何より恐れている。
 それでなくとも、ニーナを狙う男性客は後を絶たないのだ。彼女が働くようになってから、もとより人気のロッツブレッドにいっそう客が増えている。遠くの町に働きに行く若者が、毎朝遠回りしてパンを買いに来ることも珍しくない。
「心配をかけてごめんなさい。だけど、あまりミスターエルマンに厳しくしないで。もし、お店に何かあったら心配だもの」
 ロッツブレッドの建つ土地も、例外なく所有者はダーレンである。以前に聞いた話では、彼のものにならなければ土地の使用権を取り上げると脅して目当ての女性を手に入れたという噂もあった。ダーレンがその気になれば、ロッツブレッドに被害が出る。
 ――こんなに良くしてもらっているのだから、わたしのせいでフレディとベッキーに迷惑なんてかけたくない……。
 居心地の良い小さな店内を見回して、ニーナは胸の痛みに唇を噛んだ。
 キャドディフ王国にいたときも、シトリッジの侵攻から彼女を守るために多くの兵が命を落とした。いつだって、ニーナは守られてばかりの自分を悔しく思う。もし彼女に自分を守るだけの力があれば、優しい人々を苦しめないで済んだはずだ。
 ――わたしがこの身を差し出せば、ミスターエルマンは満足するのかしら。だけど心のない関係なんて、考えただけで怖気(おぞけ)がする。彼はそんな関係を幾人もの女性と築いて、いったい何が楽しいというの?
 十七歳にもなれば、ニーナも人並みに愛しあう男女がどういう夜を過ごすのか知識は持ち合わせている。無論、その身で体験したことはないし、誰かと恋仲になるつもりもない。逃亡中の身の上であり、自分を恋人や妻に迎えた男性は平穏な人生から脱線しかねないのだ。
 何より、ニーナ自身が誰かと恋をするなんてできそうにない。彼女の心の奥には、今も変わらずただひとりの男性が居座っている。その影を失うのが怖くて、忘れずにいたくて、ニーナは毎朝必ず紫サファイアの指輪を見つめるのだから……。
「おいおい、ニーナ。お願いだから、店のためにダーレンの言うことを聞いたりしないでくれよ。そんなことになったら、俺もベッキーも生きちゃいられんからな」
 心底不安そうなフレディの表情に、ニーナは大きく(うなず)いて見せる。もちろん、彼女だってダーレンの言いなりになどなりたくはない。だが、このままロッツブレッドに居続ければ、いずれ相手は誘いに乗らないニーナを忌々しく思い、店に圧力をかけてくるだろう。
 大好きなフレディとベッキー、いつも声をかけてくれる商店街の人々、たくさんの客の笑顔、それらを守るためにロッツブレッドから去るべきなのかもしれない。いくらダーレンといえど、ニーナが姿を消したあとまでロット夫妻に嫌がらせをしやしないはずだ。
 不意に、店舗の入り口扉がりんりんと鈴を鳴らす。厨房(ちゆうぼう)で話し込んでいたフレディとニーナは、会話の内容が内容だったため、一瞬凍りついた。しかし次の瞬間、聞き慣れた明るい声がふたりの鼓膜を揺らした。
「もう、ふたりともずいぶんのんきじゃない。窯から煙が上がってるわよ、フレディ」
 大きなバスケットを手に、ベッキーが厨房を(のぞ)きこむ。日除(ひよ)けの帽子から華やかな赤毛が(ひたい)を彩り、彼女の茶目(ちやめ)()ある雰囲気をいっそう演出していた。
「おっといけない。ちょっと話し込んじまったな。ニーナ、スープを飲んだら店の前の掃除を頼むよ」
「はい、フレディ。おはようございます、ベッキー」
 冷めてしまったスープを飲むと、ニーナはほうきとちりとりを手に店内を横切る。
「ああ、ニーナ! あなたったらまたそんな古いドレスを着て! 次の休みこそ、一緒に洋品店へ行くからね。絶対よ」
 おしゃれが好きなベッキーは、以前からニーナの服装に不満を抱えていた。事あるごとに服を買いに連れだそうとするけれど、(いま)だに一度も成功していない。
「わたし、これで困ってないわ。それに高級なドレスを着たりしたら、汚れるのが心配で掃除が雑になってしまうかもしれないもの」
「またそんなこと言って。女の子はかわいい服を着てなきゃダメよ。せっかくの銀髪だって、伸ばしたほうが美人に磨きがかかるでしょうに」
 困ったように微笑んで、ニーナは返事をせずに店の外へ出て行く。
 日差しを浴びて、ロッツブレッドの看板が明るく輝いていた。今日は天気もいいし、掃除を終えたらお客さんが来る前に窓とドアを磨こう――。
 元王女は自分の身の上を嘆くどころか、幸福な日々に感謝しながら路上を掃く。丁寧に丁寧に、(ちり)ひとつ残さないよう、ニーナは自分にできる精一杯を努めた。
 どんなに幸福な場所も、彼女にはとどまる(すべ)を与えてくれないと知っているからこそ、一秒ごとの現在を大切に、彼女は生きている。

   ◇ ◇ ◇

 昼前にはいつものごとく、ハニーロールが売り切れた。人気商品なのだから、もっとたくさん焼いてほしいとベッキーが言うも、フレディは「人気商品だからこそ、この数でいいのさ」と笑って答える。
「ありがとうございました。またご贔屓(ひいき)にしてくださいね」
 昼時の忙しい最中(さなか)でも、ニーナはひとりひとりの客に声をかける。これもいつものことだ。
「もちろんだよ、ニーナ。ところで来週の休みにオレと一緒に見世物小屋へ……」
「おいおい、何を抜け駆けしてやがんだ。後ろの列が見えねえのか? 買い物が終わったらさっさとどきやがれ」
 最近よく顔を出す、鼻の頭に雀斑(そばかす)の浮いた青年がニーナにお誘いの声をかけると、すぐ後ろにいた常連が水を差す。
 常連客の間では、仕事中のニーナに対して挨拶以上の声をかけてはいけないという暗黙の了解ができあがっていた。もとより優しく誠実なニーナは、話しかけられれば無下な対応はできない。そのせいで会計が滞り、ひいては彼女が困ることを見越した常連たちならではの考えだ。
 とはいえ、いきなりどやされた雀斑の青年もやりきれないのか、不満そうに後ろを振り返る。ケンカになっては元も子もない。ニーナは彼の手をそっとつかんだ。
「ごめんなさい、お客さん。誘ってくれるお気持ちだけで(うれ)しいです。ありがとう」

「逃亡花嫁と愛執王子~きみのために鐘は鳴る~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます