逃亡花嫁と愛執王子~きみのために鐘は鳴る~

麻生ミカリ

第一章 追憶の婚約者 (1)


第一章 追憶の婚約者


『オレたちは国のために婚約するのではない。政略結婚なんて言葉にだまされるな。理由がなんであれ、結婚は幸せになるための約束だ。オレはおまえを大陸一の幸福な花嫁として迎えてやる』
 耳元に居丈高でありながら甘い響きを宿らせる声が聞こえた――ような気がした。
 それが気のせいだとわかっていても、ニーナは目を閉じたままでいたかった。夢の余韻に浸って、お日さまの香りがする枕に顔を埋める。うつぶせになると、肩口で切りそろえた髪が首筋をくすぐった。
「んん……、ん、ダメね。起きなくちゃ……」
 寝台から身を起こし、ニーナは小さくあくびをする。
 (はり)がむき出しの低い天井と、壁際に積まれた藁束(わらたば)。その隣には小麦粉の袋が大量に並んでいる。シェリルが見たら、目を丸くするに違いない。
 亡きキャドディフ王国の第一王女ニーナの住まいとしては、あたたかな寝台があって雨風を防ぐ天井と壁があるだけでもじゅうぶんだ。
 古びた床につま先をつくと、ニーナはゆっくりと立ち上がる。質素な寝間着と不釣り合いな美しい銀髪がふわりと揺れた。
「よし、今日も一日がんばろう!」
 小さな衣装箱をあけて、着古してはいるけれど清潔な衣服を身につける。真っ白なエプロンを腰に巻くと、指輪を通した鎖を首にかけた。
 紫サファイアは今の自分が持つには似つかわしくない。ドレスで着飾ることも、舞踏会へ出向くこともない、町娘の毎日に華美な装飾品は不要だ。
 それでも手放すことができず、ニーナは衣服の下に首飾りとして指輪をつけていた。毎朝必ずその宝石を見ては、遠く離れたエリオットを思い出す。
 別々の道を歩むふたりの人生が交錯することは、これから先二度とないだろう。きっと彼は王妃にふさわしい他国の王女と婚約をしなおし、近い将来に盛大な結婚式を挙げる。そうなれば、ニーナのことも完全に忘れてしまうはずだ。
 だからこそ、自分だけは覚えていたかった。
 旧キャドディフ領がシトリッジ王国の手に渡って二年。ニーナは十七歳になった。
 この二年の間、彼女は四つの町を渡り歩いてきた。宮殿での優雅な生活に慣れていた身に、庶民の暮らしは難しいだろうかと不安もあったが、生来の明るさと朗らかさ、そして努力家の性格が幸いしてどの町でも楽しく暮らすことができた。
 衣服を整え、鏡の前で髪を()く。
 かつて腰に届くほど伸ばした銀髪は、キャドディフの銀の花と呼ばれた王女を彷彿(ほうふつ)とさせるため、今では肩につく程度で切りそろえていた。誰もが口々に美しい髪を伸ばすよう進言するけれど、従うわけにはいかない。
 二年で四つの町を移動してきたのには理由がある。
 最初は宮殿を出てから半年ほど経ったころ――。
 旧キャドディフの西隣国で、シトリッジの兵士が銀色の髪の少女を探しているという噂を聞きつけた。当時、靴職人の老夫婦に世話になっていたニーナは、身辺に見慣れない男性たちの気配を感じてその地をあとにした。
 次は同じ国の商業地、大きな市場で花売りとして働いていたときだ。
 ある朝、いつもと同じように仕入れた花を荷馬車で運び入れていると、兵装の男性ふたりが市場の中で「ニーナと呼ばれる銀髪の少女が働いているのだな」と確認しているのが聞こえてきた。
「急いでシトリッジに馬を走らせろ」
「おい、おまえ、ニーナが来たら足止めしておくんだ。褒美はたっぷりととらせてやる」
 気のせいなどではなく、シトリッジ兵は自分を探している。なんのためかはわからない。亡国の王女を捕らえて、今さらシトリッジ王室に利益があるとも考えにくかったが、ニーナはまたその町を離れた。
 その後、国境を超えて大陸の南に位置するのどかなドーソンランドへ入ったとき、ニーナは長く美しい銀髪を切り落とした。もっと早くこうするべきだったのに、過去の自分を失うことに(おび)えていたせいで決断が遅れてしまった。
 ニーナがその次に働いていた農園は、不況の(あお)りで人手に渡り、半年ともたずに職を変えることになった。
 新たな職場を求めて商業地エッジワースにたどり着いた彼女は、それ以来ずっとパン屋『ロッツブレッド』で働いている。店主のフレディとその妻のベッキーが営む店は、家庭的な味と良心的な価格で町の人気店だ。はちみつを使ったハニーロールは、たいていお昼前に売り切れてしまう。
 二年前、キャドディフ王国で働いていた息子をシトリッジの侵攻で亡くした中年夫婦は、ニーナを我が子のようにかわいがっていた。
 最初はとなり町の自宅に一緒に住もうと言ってくれたが、そこまでお世話になることはできないとニーナが遠慮すると、店舗の二階屋根裏部屋に調度品をそろえてくれた。寝台も衣装箱も、フレディとベッキーの亡くした息子が使っていたものらしい。
 部屋代がかからなくなった分、ニーナは給金を()めてシェリルに送金する余裕も出てきた。王国が滅びた今、自分に仕えてくれていた侍女たちが苦しい暮らしをしているのではないかと思うと、居ても立ってもいられない。
 結果、ニーナは新しいドレスも靴も買わず、ささやかな送金だけを生きがいに働いている。
 ロッツブレッドの看板娘、明るくかわいらしい働き者のニーナ。町の人々は、素性も知れない自分をそう言って受け入れてくれた。ロット夫妻だけではなく、エッジワースの商人たちは皆一様に気のいい者ばかりだ。
「いけない、急がなくちゃ」
 鏡を前に感傷に浸っていたニーナは、階下から窯をあたためる気配を感じ、急いで部屋を出た。
 ドーソンランドの空は、今日も見渡すかぎり青く澄んでいる。
 この空は、あの人の住むダヴェントンへと続いているから、何も寂しいことなんてない。
 胸元の指輪を服の上からそっと握りしめて、彼女は唇にせつなげな微笑を浮かべた。

「おはよう、ニーナ。なんだい、そんなに慌てて。ネズミでも出たのかい?」
 階下に下りると、窯の前でフレディが手についた(すす)を拭っているところだった。白髪混じりの濃い茶髪に、白い作業着姿の店主を見て、ニーナは肩をすくめる。
「おはようございます、フレディ。ロッツブレッドにネズミが現れるとしたら、それはきっとあなたの焼くパンがおいしすぎるせいね」
「ははっ、そりゃ仕方ない。だからってお客さまにまずいパンを売るわけにはいかないからなあ」
 手にしていた布を調理台に置き、フレディは愛用のマグカップで野菜を煮詰めたスープを飲む。
 パン屋の朝は早い。彼はいつも朝食を食べるより早く、釜に火を入れる。フレディのために毎朝スープを作るベッキーは、彼よりもさらに早起きしているはずだ。
「ほら、おまえさんの分はこっちだ。掃除の前にスープくらい胃に入れておきな。それでなくともニーナは細すぎる」
 小ぶりの使い込んだ鍋を目線で示して、フレディは口ひげを指先で撫でる。
「ありがとう、いただきます」
 この店で働くようになってから、以前に比べてだいぶふくよかになったと自分では思っているのだが、フレディとベッキーはニーナの華奢(きやしや)体躯(たいく)を心配しているようだ。
 おいしいパンを(まかな)いに食べさせてもらえるだけでもありがたいのに、朝はニーナの分までスープをこしらえ、週に一度は夕食に招いてくれる。ロット夫妻の心のあたたかさが、ニーナには何よりのごちそうだった。
「そういや昨日の夜、またダーレンが来やがったんだ」

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