逃亡花嫁と愛執王子~きみのために鐘は鳴る~

麻生ミカリ

プロローグ 誰がために鐘は鳴る


プロローグ 誰(た)がために鐘は鳴る


 まるで悪い夢を見ているようだった。
 宮殿の階下からは兵士の雄叫(おたけ)びと断末魔の叫びがひっきりなしに響き、侍女たちがニーナを囲んですすり泣く。
 父である王の死から、まだほんの二週間しか()っていないというのに、なぜこんなことになったのか。
 キャドディフ王国第一王女にして、末娘のニーナは信じられない光景に両腕で自分の体を抱きしめた。
 先ほどから聞こえてくる侍女たちの話によれば、攻めてきたのは北の大国シトリッジに間違いない。父の存命中からキャドディフの資源に目をつけ、無茶(むちや)な条件を何度もつきつけてきていたのは知っている。病に伏せる父に代わって執務を行う兄は、いつも対応に苦慮していた。
「もうおしまいです……。シトリッジに攻めこまれて逃げられるはずがありません……」
 はらはらと涙をこぼして、若い侍女が床にくずおれる。それを慰めようと立ち上がったとき、彼女たちが身を隠していた部屋の扉が大きく開け放たれた。
「……シェリル! よかった、無事だったのね」
 生まれてから十五年、ずっと(かたわ)らに仕えてくれた侍女の姿を見て、ニーナは安堵(あんど)に相好を崩す。長い銀髪を揺らして駆け寄る王女に、シェリルは静かな目をして話しかけた。
「ニーナさま、落ち着いてお聞きください。王妃さまとノア殿下はシトリッジの兵士に捕らえられました。かくなる上は、ニーナさまだけでもなんとかご無事に逃げ延びていただかなくてはなりません」
 ――お母さまとお兄さまが……?
 絶望に唇をわななかせたニーナは、涙をいっぱいにためた瞳で侍女を見つめる。十五歳の誕生日を迎えたばかりの王女の身には、あまりに残酷な事実だ。シェリルの話を聞いていた侍女たちが、声を殺して涙を流す。けれどニーナは白い指をぎゅっときつく握りしめ、まばたきもせずにシェリルの言葉の続きを待っていた。
 今、自分が泣き崩れてはいけない。
 泣くのはいつでもできる。キャドディフの王女として、できるかぎりのことをしなくては――。
「幸い、すぐ近くまでダヴェントン王国の軍隊が来ていると聞いています。ニーナさまはダヴェントンに逃げ延びて、エリオット殿下のもとで(かくま)ってもらえば……」
「シェリル、それはできないわ」
 大陸内でもっとも勢力を持つダヴェントン王国ならば、亡国の王女ひとり匿うのは難しいことではないだろう。まして、第一王位継承権を持つエリオットはニーナの婚約者だ。
 しかし、シトリッジ王はその事実を知りながら、キャドディフに戦いをしかけてきた。それがどのような意味を持つか、政治に明るくないニーナでも予想がつく。
 シトリッジは、ダヴェントンに楯突(たてつ)いてでもキャドディフの資源を求めているのだ。
 四方を他国に囲まれた小国キャドディフには、海もなければ豊かな土地もない。それでも国民が食べるものに困らず暮らしていけるのは、ひとえに鉄鉱石のおかげだった。近隣諸国ではほとんど採れない鉄鉱石だが、キャドディフの地では露天掘りできるほど赤鉄鋼に恵まれている。
 エリオットの婚約者であるニーナを手にかけるということは、鉄を手に入れたのちにシトリッジはダヴェントン相手にでも戦争をしかける覚悟があるのだろう。
「わたしがエリオットさまに匿ってもらえば、シトリッジがダヴェントンに攻め込む(いとぐち)となるかもしれない。自分が助かるためだけに、他国に迷惑はかけられないの」
「ですが……」
 言いすがるシェリルに、ニーナは優しく微笑(ほほえ)みかけた。その笑顔の無垢(むく)な気高さに、侍女は言葉を失う。
「さあ、みんな。泣いてばかりいてはいけないわ。これから苦しいことがたくさんあるかもしれないけれど、希望を失ってはダメ。生きて、生き延びて、またいつかどこかで会えると信じて」
 オークの磨きぬかれた床に座り込む侍女たちに、ニーナは穏やかな声で話しかけた。この中にいる誰よりも危険な立場にある王女の毅然(きぜん)とした態度に、皆が顔を上げて言葉の続きを待つ。涙に()れた瞳が、わずかな希望を(とも)した。
「少しだけど、ここにある宝石を持っていって。ノアお兄さまが捕らえられたのならば、おそらく戦いは長く続かないはずよ。城下の家族のもとへ帰って、みんなに伝えてもらいたいの。シトリッジに仕返しをしようなどと考えず、自分たちが生きていくための方法を考えてほしい、決して命を無駄にしないで生きてほしい、と……」
 ニーナは宝石箱を持ち上げると、侍女ひとりひとりに自分の装飾品を手渡していく。最後にシェリルの前に立つと、十五歳の誕生日に亡くなる直前の父から贈られた大粒の真珠の首飾りを差し出した。
「いけません、ニーナさま。これは王がニーナさまのために海の向こうから取り寄せたもので……」
 固辞するシェリルの手に首飾りを握らせ、ニーナは静かに首を横に振る。長く豊かな銀髪が音もなく揺れた。
「わたしには、エリオットさまがくださった指輪があるからだいじょうぶよ。シェリル、あなたはいつもわたしのそばにいてくれた。たくさんのことを教えてくれたわ。だけどこれからはどうか、自分のために生きて……」
 左手の薬指にはめた希少な紫サファイアの指輪を、ニーナはそっと指先で()でる。婚約の際、エリオットが手ずからはめてくれた思い出の指輪。
 ――きっともう、お会いすることもないけれど……。
 初めて会った日から、ずっと憧れてきた。美しく強く、未来を見据える黒い瞳の王子。
 彼の艶美な微笑も、魅惑的なまなざしも、気高く勇猛な精神も、すべてがニーナの心に刻まれている。
 結婚の約束は水泡に帰すとも、彼を忘れることはないだろう。
「ニーナさま……」
 先刻まで恐怖に泣き濡れていた侍女たちが、健気(けなげ)な王女の姿に唇を噛む。キャドディフの銀の花と呼ばれた愛らしい少女は、自らの苦境に嘆くより側仕えの侍女たちを(おもんぱか)ってくれている。ニーナとて、心細いのは変わりないというのに――。
「シェリル、最後の着替えを手伝ってくれる? ほかのみんなは先に逃げてちょうだい。必ず生きて、家族のもとに帰るのよ」
 長くまっすぐな銀髪をシニヨンにして、侍女用の白いキャップで包み込む。お仕着せの制服に着替えると、ニーナは黙ってシェリルに(うなず)いて見せた。
 だいじょうぶ。何も心配いらないわ。
 声に出さなくとも、彼女の(おも)いは長年仕えてくれた侍女に伝わっただろうか。赤い目をしたシェリルが、ぎゅっとニーナの両手を握る。
「どうか……、わたしもおそばに……」
「大好きなシェリル、あなたには子どもたちを守る仕事が残されていることを忘れないで。リンディもジョアンナも、ママが帰ってこなかったらどんなに悲しむか知れないわ。落ち着いたらきっと手紙を書くから、引っ越したりしてはいやよ?」
 後半は涙声になりながら、それでもニーナは冗談めかして侍女の手を握り返す。これが今生の別れになるかもしれない。そんな気持ちはおくびにも出さず、彼女はシェリルに微笑みかけた。

 そして、鐘が鳴る。
 兵士たちの死を悼み、聖堂の鐘を鳴らすのは誰だろう。青空に消えていく最後の余韻を耳に、ニーナはひっそりと城を抜けだした。
 行き先のあてなどあるわけもない。
 捕らえられた母と兄を救い出す(すべ)もない。
 彼女に残されたのは、思い出の指輪ひとつ――。

 そのころ、キャドディフの中央宮殿にダヴェントン軍が到着していた。
「アレク、そっちは任せる。オレはニーナを探す」
「了解です、殿下」
「ケヴィンは捕らえたシトリッジ兵の確認をしてくれ。不必要に傷つけるな」
「かしこまりました、殿下」
「それからヘイデンは……」
 圧倒的な数の差と、率いるエリオット第一王子の手腕によって、シトリッジ兵が次々に捕らえられていく。
「殿下、こちらは任せてくださって結構です。ニーナ王女を探しにいかれるのでしょう?」
「……悪いな、アレク。頼んだ」
 黒髪に黒衣のエリオットは、鐘の音を聞きながら婚約者の少女を探していた。
 王妃と王子は、すでにシトリッジ軍から奪還し、医療班に任せてある。しかし最愛のニーナの姿だけが見当たらない。
 遠く、どこからともなく静謐(せいひつ)な鐘の音がキャドディフの空に響いた。
 次の春には、愛する花嫁のためにこの手で鐘を打ち鳴らすはずだったというのに、彼女はどこへ行ってしまったというのか。
 ――どこにいても、必ず見つける。ニーナ、オレの花嫁となる女はおまえだけだ。
「ニーナ! 返事をしろ。オレだ、エリオットだ!」
 エリオットは声のかぎり、(いと)しい少女の名を呼びつづけた。部屋という部屋の扉をあけ、ひたすらに彼女を捜し歩く。
 けれど宮殿のどこを探しても、ニーナの姿は見つからなかった――。

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