冷徹社長は溺あま旦那様 ママになっても丸ごと愛されています

西ナナヲ

アイム・ア・マザー (2)

 娘がもめ事に巻き込まれるのをなによりも避けたかった私に、取れる手段はひとつ。連絡するしかなかった。

 記載されていた電話番号に、その場で連絡をした。すぐにつながった。了と直接交渉したいかと聞かれ、ノーと答えた。待ちあわせの日取りや場所の確定に至るまで、びっくりするほど感じのいい弁護士が間に入ってくれた。

 ふたりで話したい、一時間でいい、という〝依頼人〟の希望を聞いたとき、また腹が立った。子どものいる人間にとって、ひとりで外出するということが、どれだけの調整を要するプロジェクトなのか、わかっていないのだ。

 保育園に預けている間は、私も仕事をしている。保育園から帰ってきたあとは、私にはもう単身で外出する手段なんてない。

 私は考え、仕事の休憩時間に、職場の近くまで来てもらうことにした。費用は向こう持ちだろう。であればずっと気になっていたぜいたくなパンケーキを食べようと考えて、近所のカフェを指定した。

 当日、その店に了は先に来ていた。それどころかだいぶ前からいたようで、水もアイスコーヒーも氷が溶け、結露でテーブルは水びたしだった。判決を待つ被告みたいに、両手をひざに置き、じっとテーブルを見つめていた彼は、近づいた私が、コンコンとテーブルを叩くまでこちらに気づかなかった。

 はっと弾かれたように顔を上げたときの、あのきょうがくに満ちた表情を忘れない。

 住所を突き止めたのなら、私の写真くらいチェック済みだっただろうに。それでもなお隠しきれなかった、以前の私とのギャップに対する驚き。そして落胆。

 そういう正直なところを愛した、かつての日々を思い出した。


「ほんとに待ってる……」

「俺、約束したらやぶらないし」

 夕方五時半、仕事を終えてスーパーを出ると、ショッピングカートの返却場所に了が立っていた。手にはこの店の袋を提げている。

 私の視線に気づいたのか、「あ」ときまり悪そうに、その中身を見せた。

「早織が作った惣菜、せっかくだから食いたいと思って……でも、どれだかわからなかったから、とりあえず選んだ」

 私の沈黙をどう受け取ったのか、了がもじもじする。最後に会ったとき二十九歳だった彼は、今年三十二歳になるはずだ。それでこの素直さ。

 私は袋の中身をチェックし、店内に戻り、お惣菜をいくつか購入して了のところへ戻った。

「そっちには私が作ったの入ってないから。こっちを食べて」

「え、ひとつも入ってないの?」

「揚げ物ばっかり選ぶからよ。今日は私、フライヤー担当じゃなかったの。相変わらず好みが偏ってるのね」

「これ、偏ってる?」

 了の眉尻が下がる。唐揚げ弁当、単品のカツ数種類、天丼。彼なりに幅広く手に取ったつもりなんだろう。この食の好みで、よくあんなスリムな体型を保っていられるものだ。基礎代謝が中高生並みなのだ、きっと。

「急ぐから、行きましょ」

「どこに?」

 保育園以外にどこがあるのよ、と言いたくなったのをこらえた。

 九月も終わりに近づいているというのに、夏の日差しはまだまだ健在だ。私は了を連れて、住宅街のほうへと入っていった。

「俺も保育園の中を見たい」と訴える了に、事前登録されていない人間は敷地内にも入れないことを説明し、門の外で待つよう指示した。彼はがっかりしつつも従順に、邪魔にならない場所によけて立つ。園児の父親としては身ぎれいすぎるその姿を横目に見ながら、彼が人目を引かないうちに急いで戻らなければと園内に駆け込んだ。

「まま!」

 保育室の引き戸を開けたとたん、娘のめぐむが転がるように駆けてきた。

「お疲れさま、帰ろっか」

 さらさらしたボブの髪とぷくぷくのほっぺたをなで回し、汚れ物などの荷物をまとめる。頼もしく明るい保育士の先生が、私に声をかけた。

「伊丹さん、お尻ふきがもうすぐなくなりそうなので、補充をお願いします」

「あっ、はい、わかりました」

「今日もご機嫌でお砂場遊びをしましたよ」

 そのようだ、と靴箱から取り出した靴の中でざらざら揺れている砂を見て思った。靴の縁が擦り切れている。そういえばそろそろ小さくなっているかも。

「だっこ」と両手を広げる恵を抱き上げ、先生にお礼を言って園をあとにする。

 門の外で待っていた了が、こちらに気づいてはっと表情を変えた。その目が、私の腕の中の恵に釘づけになる。

 私は門を出て、了の前に恵をそっと下ろした。

「恵、〝こんにちは〟できるよね」

 了のももあたりまでしか背丈のない恵が、子ども特有の慎重さで不器用に頭を下げる。その健気な仕草に打たれたように、了が言葉を失うのを、私は見た。

 立ちすくむ了を、恵が不思議そうに見上げる。ついこの間まで人見知りがひどかったのだ。卒業したところでよかった……と安心した矢先だった。

「ぱぱ」

 ぎゃっ……。

 私は急いで、「ぱぱ」と了を指さす恵を抱き上げて歩き出した。保育園のお友達の影響か、最近、大人の男性を見るとパパと呼ぶのだ。判定はとても雑で、年配の方であろうがフレッシュマン風の青年であろうがおかまいなしだ。

 急ぎ足で家を目指す私の背後から、了が追いついてくる気配がした。

「早織、俺の子だよね」

「そういう話、今しないで」

「パパって言ってるじゃん」

「だれにでも言うのよ!」

「じゃあ、この人はパパじゃないって言えよ!」

 ぐいと肩を引かれ、足が止まった。間近で視線が絡む。

 私は唇を噛んだ。言えない。恵に嘘はつけない。

 了ももうわかっているだろう。だってそっくりなのだ。面影があると思ってはいたけれど、今日久しぶりに了の顔を見て愕然とした。

 いつもなにか問いかけているような瞳、笑ったときの口元、耳の形。どうしてここまで、というくらい、この子は了に似ている。

 父親である、了に。

 健やかに育ち、十二キロを超えた恵は、長時間抱いているのも重労働だ。日陰もない、住宅街の片隅の路地。汗がこめかみを伝う。

 了が、持っていたかばんとスーパーの袋を地面に置いた。おずおずと、こちらに両手を差し伸べる。

「……恵?」

 自分にその名前を呼ぶ権利があるのか、不安で仕方なさそうな声だった。

 恵はどちらの腕の中が快適かはかるように、その手をじっと見つめ、やがて「だっこ」と了に向かって両手を広げた。

 了の目が潤んだのを見て、私の心が複雑に揺れた。

 ねえそれ、なんの涙? かいこん? 罪悪感?

「おいで」

 彼は震える声で呼び寄せ、恵を自分の腕に抱いた。

 抱きかたは案外さまになっている。だけど恵のほうがまだ様子見をしているせいで、ぎこちなさもある。それがうれしいのか残念なのか、自分の気持ちがわからない。

「早織、一緒に暮らそう」

 私は手持ち無沙汰になった腕を胸の前で組み、目をそらした。

「生活、楽じゃないんだろ」

「さすが暮らしに余裕のある方は、下調べも入念ね」

「どんなにののしられても、俺は引かないよ。もう後悔とか反省とか、死ぬほどして、それでも来るって決めたんだ。もう一度早織に会って、やり直すって決めた」

 勝手に決めないでよ。

 その言葉は声にならなかった。

「俺、本気だよ」

「じゃあ養育費と生活費をちょうだい。私のパトロンにでもなったつもりで、優雅な住まいと暮らしを提供して。それが一番うれしい」

「いやだ」

 きっぱりと了は言った。

 私は思わず彼のほうに視線を戻し、その決意に満ちた表情に怯んだ。

「俺、金を出すために早織を探したんじゃないよ」

 やめてよ。

 了のまっすぐな心と言葉は、私を揺さぶる。

「この子の父親になるために、来たんだ」

 あの頃と同じように。

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