冷徹社長は溺あま旦那様 ママになっても丸ごと愛されています

西ナナヲ

冷徹社長は溺あま旦那様 ママになっても丸ごと愛されています / アイム・ア・マザー (1)




冷徹社長は溺あま旦那様 ママになっても丸ごと愛されています




 一年間。

 けっして短くないその期間、私を求め続けた彼の手は熱く、ひたむきだった。

 ついに私を手に入れた、子どもみたいな純粋な喜びと、男性的なたけりが仕草にも目つきにも表れていて、この人のこういう素直さが本当に好きだとあらためて感じた。

 熱いよ、と彼が笑った。

 そっちもね、と私も笑い、抱きあってキスをした。

 明け方、汗ばんだ身体からだをシーツに横たえてまどろむ私を、彼がうしろからぎゅっと抱きしめた。

 寝ないの、と聞くと、もったいないから起きてる、と答え、また私を笑わせる。

 私も起きていたかったけれど、甘い疲労に負けてまぶたを閉じた。

 はじめて一緒に迎える朝を夢見て。

 それが最後になるとも知らずに。


アイム・ア・マザー


 順を追って説明しよう。

 私には、一歳九カ月になる娘がいる。

 会社は一年前に辞めた。心情的には辞めざるを得なかったというほうが正しい。今は近所のスーパーマーケットで、パートの仕事に就いている。二十九歳。未婚だ。

 なぜ結婚しなかったのかというと、この目の前に座っている男、はざりょうが……。

「なあ、待って、全然順を追ってない」

「あらそう、失礼。いきなりあなたが現れたものだから混乱してて」

「変わってないな、その気の強い感じ」

 了が不満そうに口をとがらせ、アイスコーヒーをすする。妊娠中と授乳中、二年間にわたって、コーヒーも紅茶もチョコレートも生クリームも我慢しなければいけなかった日々を思い出した。

 彼はさっきから私のほうを見ない。一緒にいた頃の私とは、かけ離れた容姿をしているからだろう。

 欠かさなかったネイルも物理的、経済的事情からやめた。爪切りでぎりぎりまで切って、やすりで丸くして終わり。

 明るくしていた髪も地毛に戻り、味気ないヘアゴムでひとつにまとめている。それなりに手入れはしているものの、美しさとはほど遠い。

 オフィスファッションなんて遠ざかって久しい。家事の時間を短縮するため、タオルと一緒に丸洗いできるものしか身につけないと決めたのだ。すなわち綿のシャツもしくはスエットにデニム、以上。

 ヒールなんて履けるわけもない。ローヒールパンプス? 母親の危機管理意識をなめてはいけない。危なっかしく走ることをおぼえた娘をいつでもダッシュで追いかけられるよう、そして抱っこしたまま履けるよう、スリッポン一筋だ。

 様変わりした自分がガラスに映り込むたびになげくのはやめた。アメリカのホームドラマの登場人物に似てきたと思えば、少しはハッピーになれる。

 インポートブランドがこぞって広告を入れたがるハイエンド女性ファッション誌、『Selfishセルフィッシュ』の副編集長、たみおりはもう存在しないのだ。

「そんなに強くもないくせにさ」

 グラスに残った氷をつつきながら、了がぼそっと言った。

 そのへんに立っているだけで人を振り向かせるような、バランスのいい長身と、なんとも感じよくあっさり整った顔立ち。よく言えばおおらか、悪く言えばちゃらんぽらんな性格を反映して、浮かべる表情は明るく、見る人をいい気分にさせる。

 着ているスーツは、仕立てのよさがひと目でわかるフルオーダーだ。この暑い日にもスリーピースをきっちり身につけ、今はベスト姿。三年前から体型も変わっていない。必要なだけの筋肉がついた、ほどよくスリムな身体。

 私が人生ので右往左往し、あらゆるものを手放し、絶望に泣いていた間、なにひとつ変わらず、失わず、笑っていたに違いない男。

「俺の話もしていい?」

「もう休憩時間が終わるから、また今度にして」

「それ、もう一回チャンスをくれるってこと?」

 了の目が輝いた。しまった。これきりという約束で会ったのに。

「それは……」

「俺、早織の仕事が終わるまで待ってるから」

「へえ、忙しい忙しいって連絡もとれなかったわりに、その気になればずいぶん自由に時間を作れるのね」

「今そんな話をしたって意味ないだろ」

「意味はなくていい。私はただ、腹が立ったからそれをぶつけてるの」

「出た、感情と理性の間の女……」

 ストローをみながら、ぶちぶち文句を垂れている。

 私はカフェの迷惑にならない程度にばしんとテーブルを叩いた。

「はっきり言ってちょうだい。なにをしに来たの? あのペンダントを返せというなら返す。でも目的はそれじゃないでしょ?」

 教師に怒られた生徒みたいに、了がびくっと背筋を伸ばし、視線をうろうろさせた。それから、話すべき文言がテーブルに書いてあるのを見つけでもしたかのように、じっと一点を見つめる。そしてふと顔を上げた。

 まっすぐな眼差し。あの頃と少しも変わらない。

 今頃気づいた。べつに了は、みすぼらしく変貌した私を見たくなくて目をそらしていたわけじゃない。なにか告げたいことがあって緊張していたのだ。

 了が口を開いた。形のいい白い歯。かつて数えきれないほどキスをした唇。

「俺と結婚して」

 硬くこわばった、きれいな顔。

 そこをめがけて、グラスの水をぶちまけそうになったのを、なんとかこらえた。


 ことの発端は、一カ月ほど前に届いた一通の手紙だった。

 スーパーでの仕事を終え、保育園に娘を迎えに行き、ベビーカーを押してアパートに帰ったら、ポストに見慣れない封筒が入っていた。

 法律事務所の名前が印刷されていた。まず思ったのは『かな』だった。

 余裕のある暮らしではないけれど、消費者金融のお世話になったことはないし、キャッシングだって一度たりともしていない。おかしなサイトにアクセスするひまもない。善良な市民だ。弁護士から連絡をもらう理由なんてない。

 部屋に上がり、娘にごはんを作り、たっぷり食べさせてお風呂に入れ、まだねんねしたくないとぐずるのをなだめて寝かせ、ようやく自分ひとりの時間を迎えるまで、封筒のことは忘れていた。

 玄関の靴箱の上に放置していたのを取ってきて、はさみで上部を切って開ける。居間の小さなローテーブルの前に座り、中身を取り出した。三つ折りの白い書面だった。

『ええっと……【当職は、狭間了氏(以下、「依頼人」という)の代理人として、貴殿に対し通知いたします】……狭間了!?

 思わず大きな声を出してから、引き戸の向こうの部屋で娘が寝ていることを思い出し、続けて漏れそうになったせいを飲み込む。震える手で書面を読み返した。

 かいつまむと、こうだ。〝依頼人〟に代わってこの通達を送っている。依頼人は私と話したいという意思がある。期日までに連絡をよこさなければ法的措置も検討する。

 怒りがこみ上げた。法的措置ってなによ。なにをどう検討するっていうの。私は了から借りたまま返していないものもないし、もらったものだって……。

 そこまで考えて、うなだれた。もらったものは、ある。

 出会ってから、了はいろんな方法で私にアプローチしてきた。その中にはプレゼント攻勢も当然あり、たいていは花や食べ物だったけれど、一度だけ……。

 そう、一度だけ、突然あの男が、ダイヤモンドのペンダントをくれたことがあった。

 最後に会った日だ。

 私は娘の寝ている部屋に入り、そっと押入れを探った。年金手帳やスペアキーなど、捨ててはいけないものをとりあえず入れておく引き出しがある。ペンダントは箱に入ったまましまわれていた。

『さっさと売っておけばよかった……』

 腕のある弁護士なら、こういうものをどうとでも言い立てて、呼び出す手立てを知っている。了が半端な弁護士に依頼するはずもない。逃げてもこちらの立場が悪化するだけ。お手上げだ。

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