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政略結婚ですが愛されています

惣領莉沙

お見合い相手は初恋の人 (3)

 それからしばらく歩いて駅に着くと、私は路線が違う佐都里と別れ、混み合う電車に乗り込んだ。

 つり革を手に立ち、流れる景色を見ていると、家事が苦手で外食が多い佐都里のことがふと気になった。

 近いうちにおいしいお料理を作ってあげよう。

 佐都里が言うように、たしかに私には、今すぐ結婚できる程度の家事力は身についていると思う。

 というのも私は、両親に望まれるまま、たくさんの習い事をしてきたのだ。

 お料理や洋裁、そして華道は、この先役立つ機会も多いだろうし両親に感謝している。けれど、『嫁ぎ先の資産を上手に運用しなさい』と言って証券会社のセミナーに参加させ、株式についてみっちりと学ばせることにはさすがに閉口した。

 会社を経営する父さんは、お金は会社を発展させるために特に重要なものだと考えていて、私に資産運用を学ばせようとする気持ちはわからなくもない。だけど高校生の頃の私は、お料理教室のあとに証券会社に連れていかれる日々に疑問を持ち、私の将来はいったいどうなるのだろうかと、悩むこともあった。

 そんな習い事三昧の日々への疑問を父さんにぶつければ、『珠美は将来、父さんの会社を発展させるために、いいお嫁さんになるんだ。そのためにはあらゆることを学んでおくべきなんだ』と、戸惑いもちゅうちょも見せず言い切った。

 迷いのない父さんに私はなにも言い返せず、いつの間にかその言葉を受け入れていた。そして『まずは家事一切を完璧にこなせるように努力しなさい』と言われるがままに学び、めきめきとその腕を上げていった。

『いつでもお嫁に行けるように』

 子どもの頃からそう言われて育てられてきたとなれば、佐都里が喜ぶ料理を作るのは簡単だ。

 それに、実は私は家事が嫌いではなく、むしろ好きだと気づいてからは、いっそう努力した。容易ではなかった日々を乗り越えた自分を誉めてあげたい。

 だけど本当は、今の私とは違う、なににも囚われることなく、自分の感情のおもむくまま自由に恋をし、身を焦がし、切ない涙を流せる女性に生まれたかった。そして、好きな人に好きだと言える、そんな喜びを味わってみたかった。

 そう思ったと同時に浮かぶのは、ひとりの男性だ。

 いずれ両親が選んだ人と結婚しなければならない私は、恋愛の向こう側にある別れを意識してしまい、初恋すら経験することなく大人になった。

 けれどある日、私の気持ちはひとりの男性にあっという間につかまれてしまった。

 ようやく訪れた初恋の相手、それは、神田課長だった。


 ――入社して間もない朝、私にとって一生忘れられない出来事が起こった。

 その日、ただでさえ混み合う通勤時の駅は、人身事故による列車の遅れのせいで、かなり混雑していた。

 ホームで電車を待っていた私は人混みに押され、近くの階段から落ちそうになった。その時、たまたま私の近くにいた神田課長がとっさに私を抱き寄せ、守ってくれた。階段にも多くの人がいて、落ちれば私以外にも誰かがケガをしていたはずだ。

「大丈夫か? 新入社員にこの混雑は酷だよな。……ケガはないか?」

 神田課長に抱きしめられた私は、階段から落ちそうになった恐怖と、入社してすぐの私でも知っているほど社内で有名な人の胸の中にいることが信じられなくて、コクコクと頷くだけで精一杯だった。

「ここにいたらまた押し出されそうだから、いったん場所を変えよう」

 私の耳元にそうささやいた神田課長は、私の肩を抱き寄せたまま人混みの間をすりぬけ、駅の外に連れ出してくれた。途中、足に激痛が走った私のくぐもった声を聞いて、駅の脇にあるベンチに私を座らせると、私の足からハイヒールを脱がせた。

「腫れそうだな。すぐに冷やしたほうがいい」

 そう言って、神田課長は近くのコンビニで氷とタオルを買ってきてくれ、捻挫したに違いない私の足を冷やしてくれた。

「捻挫した時は、まずはちゃんと冷やさないとダメだ」

「あ、はい……すみません」

 ベンチに座る私の足元に膝をつき、氷を包んだタオルで丁寧に足を冷やしてくれる神田課長の伏し目がちな表情に、私はしばらく見とれていた。

「今日はこのまま家に帰って足を休ませたほうがいい。総務部の上司に電話して、そう伝えておけ。俺はざさを送ったあとで出社するから、葉月常務にも電話してそう言っておいてくれ。葉月常務の担当だから、大丈夫だろ?」

「あ、あの、私、平気です。ちゃんと会社に行きます」

「ダメだ。ちゃんと安静にして冷やしておかないと、かなり腫れるぞ。入社早々休むのは気が進まないだろうけど、このまま出社しても痛みが増して、仕事にならないぞ」

「でも……」

 反論する私に神田課長の厳しい視線が向けられ、おまけに神田課長に言われたとおり足の痛みもひどくなり、しぶしぶ休むことにした。

 総務部に連絡を入れたあと、葉月常務にも電話をすると《だったら神田にお姫様抱っこでもしてもらって帰りなさい。男前の顔を間近で見られる機会は滅多にないぞ》と、スマホの向こう側で笑っていた。

「お姫様抱っこって……」

 スマホをスピーカーモードにしていたせいで、神田課長にも常務の言葉はしっかり届いていた。すると、神田課長はぼうぜんとしている私にかまうことなく立ち上がった。

「能天気な葉月常務が言いそうなことだけど、上司の指示には従わないとな」

 私をからかうように言うと、常務に言われたとおり、私を抱き上げた。

「だ、大丈夫です。あ、あの、下ろしてください」

「暴れると落ちるぞ」

 お姫様抱っこされた私の目の前には、神田課長の整った顔。耳に届くのは、吐息交じりの優しい声。一瞬にして体から力が抜け、私は体を委ねた。

 タクシーに乗り込むまでのほんの三分。時折私を見下ろす神田課長の視線にドキドキしながら、熱くなる体をどうしようかとじっとしていた。

 入社後すぐに総務部へ配属され、経営企画部の葉月常務を担当すると決まった私に、神田課長との接点が持てたことを羨む声がいくつもかけられた。だけど、見た目だけでなく有能な仕事ぶりでも評判の神田課長と私が、必要以上に近づくことはないだろうと考えていた。

 そんな課長が、私を助けてお姫様抱っこまでしてくれるなんて……。

 恋愛経験ゼロの私には、神田課長の体温を感じられるその時間は夢のようだった。

 ドキドキしながら何度も視線を向ける私に、神田課長はふっと笑い、唇を私の耳元に寄せた。

「俺の腕にすっぽりおさまる小笹は、本当のお姫様みたいだな」

 その低い声に、私の体は震えた。

「お、お姫様なんて……そんなこと、ないです……」

 ゆっくり歩く神田課長の腕の中、瞬きを繰り返す。心臓がばくばくと暴れるのを感じた。照れている顔を見られたくなくて、目の前にある胸に顔を押しつけた。

 すると、いったん歩みを止めた神田課長が私の顔をのぞき込み、のどの奥で笑った。

「……こうしてお姫様に甘えられるのも、悪くないな」

 優しくつぶやいた神田課長の声が、私の胸を震わせる。そして生まれて初めて感じる想いが溢れ出した。

 そう、私はこの時、恋に落ちた。初恋だった――。

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