焦れきゅんプロポーズ~エリート同期との社内同棲事情~

水守恵蓮

サヨナラ (1)

サヨナラ


 付き合い始めて五年と十一ヵ月。同棲を始めて二年と十一ヵ月のその日――。

「もう、いい加減にしてよっ!!

 日頃から積もり積もっていたうっくつした感情が、本当に些細なことで爆発した。

 しおざきともは、怒鳴ると同時に、手がジーンとするくらい強くテーブルを叩いた。その衝撃で、テーブルの上に置いてあった醤油差しがグラッと傾く。

「うわっ……! バカか、お前……!」

 学生時代バスケ部で鍛えたという反射神経を、ここぞとばかりに見せつけるように、智美をこれほどまでに激怒させた男……西さいゆうが、四十五度に傾いた醤油差しを両手でパシッと支える。

 勇希は一度ホッと息を吐いてから、目を剥いて怒鳴り返した。

「これ倒したら、大惨事だろうがっ!」

(醤油くらいなによ。そもそもなみなみに入ってるわけじゃないのに、大惨事なんて大袈裟だって言うの)

 勇希が心配しているのは、テーブルの下に敷いてあるお気に入りのラグマットに、茶色いシミが残ることだけだろう。

 そんな本心が読めてしまうくらいに、おそらく智美は、勇希以上に彼を知っている。

 そして勇希も、智美以上に彼女を知っている。勇希は智美の〝次〟の行動を予測して、醤油差しをキッチンに避難させた。再びもとの位置に戻ってくると、不機嫌な表情を隠さず、どっかりと床に座り込む。

「……つか、なに? 『いい加減にして』って。いい加減もなにも、なんの加減だよ」

 ため息交じりにそう言って、勇希はテーブルの上に置いたスプーンを手に取り、少し重そうに指でクルクルと回した。左手で頬杖をつき、斜めの角度から見上げるあきれ果てた瞳が、智美の怒りに油を注ぐ。

「もう、食べなくていい」

 智美はテーブルに両手をついて勢いよく立ち上がり、勇希の前に置いてあったお皿を持ち上げた。茶色く染めたサラサラのロングヘアをふわっと揺らして、リビングから出ていく。

「あ、おい」

 智美は綺麗に整えた眉尻を上げ、追いかけてくる声を背にキッチンに入ると、お皿に半分以上残っているカレーを、三角コーナーに捨てた。ぐちゃぐちゃにつぶれたジャガイモが無残だ。

「ちょっ、智美っ……」

 背後から伸びてくる勇希の手をパシッと払い、智美は蛇口をひねって勢いよく水を出した。スポンジを手に取り、少し乱暴に食器を洗い始める。

「お前なあ……。食べ物を粗末にするなよ」

「勇希に人のこと言えるの!? イモが崩れるほど煮込んでないのに、こんなにしたのは勇希じゃない!!

 怒鳴りながら振り仰ぐと、真うしろに立っていた勇希の顔が、視界いっぱいに飛び込んでくる。

 智美より十五センチ高い身長。少し癖のあるサラッとした髪が、目もとにわずかにかかっている。鼻筋が通っていて、血色のいい薄い唇。

 勇希はとても整った顔立ちをしている。どのパーツをとっても、いちいち智美の好みだ。

 その中でも、智美が一番好きなクリッとした目は、今はほんの少し細められ、三角コーナーに向けられている。

「あ~……」

 言いたいところを察したのか、勇希の声が尻すぼみになる。

 それが当然の反応だ。三角コーナーに捨てられたカレーはキーマカレーではないのに、すべてが押しつぶされていて、ほとんど原形がわからない状態になっていたのだから。

「……ごめん。無意識」

「だからもっと腹立つのよっ」

 口もとを大きな右手で隠して短い謝罪をつぶやく勇希の胸を、智美は泡のついた手で強く押した。

「ぶっす~っとした顔して、こんなに丁寧につぶしてくれちゃって。食べ物にあたってないで、言いたいことあるなら、はっきり言えばいいじゃない」

 うっと短いうめき声をあげる彼を無視して、再びクルッと背を向ける。彼女の形のいい小さな唇は、無自覚のうちにツンと尖っていた。

「智美。……悪かったって」

 少しだけしゅしょうな声になる勇希に対しては無言のまま。智美は、ただ食器を洗うことに集中する。

 そんな智美に焦れたように、勇希が口を開いた。

「――だってさ。仕方ないだろ!? 正直『あ~、またカレーか』って思ったし。っつーか俺、ここんとこ仕事立て込んでて。社食の営業時間ギリギリに駆け込んで食ってるから、昼も、いつ行っても残ってるカレーが続くわけで……」

「それは私のせいじゃない」

「まあ、そうだけどさ。……けど、智美だって同じ会社なんだからわかるだろうがっ! 今、俺がどれだけ忙しいかって!」

 一日の仕事を終えて帰ってきた智美が作った夕食のカレーを、丹念につぶしながら食べていた言い訳をするうちに、勇希も勢いづいたのだろう。彼の声は、段々と荒くなっていく。

「だから私は文句も言わずに、勇希の分も、夕食作ってます」

「……そりゃ、ありがたいって思ってる。でもな、俺はこの週明けからもう四日連続で昼も夜もカレー食ってるの! そりゃ飽きるし、うんざりするのも当然だろ!」

 そう言われると、智美も彼の気持ちがわからないわけではない。

 勇希が本当に言いたいことは、おそらく『手を抜きすぎ』という不満だろう。

 それには智美も、ちょっと申し訳なかった、という気持ちになる。たしかに、まだ付き合いたてとか同棲したての頃だったら、もう少し気を使っただろうから。

 しかしふたりは、付き合いたてのラブラブカップルではないのだ。もうすぐ付き合って七年目に差しかかろうという今、お互いにカッコつける関係はとっくの昔に終わっている。

 智美は、キュッと音を立てて蛇口をひねった。水が止まると、布巾で手を拭きながら、クルッと身体を回転させて勇希と向き合う。そしてグッと顔を上げて、大好きな彼の瞳を睨みつけた。

「あのね。私は家政婦じゃないし、料理が仕事でもないの! でも〝同じ会社〟だし、勇希が〝忙しい〟のもわかってるから、私だって疲れてるけど、作ってあげてた。そのメニューが簡単で適当な物になったからって、文句言うな! 言うなら食うな!!

 智美は刺々しい嫌みを交えて捲し立てる。

 力のこもった彼女の黒いつぶらな瞳に、勇希は一瞬怯んだ。それを機に、今度は智美が勢いづくターンに突入する。

「時間なかったし圧力鍋じゃないんだから、イモもニンジンもむしろ硬かったの! なのに勇希は、こ~んなに綺麗につぶしてくれちゃって! どんだけ力込めてるんだ、っていうの!」

 そう言いながら右手を大きく横に払い、勇希の視線を再び三角コーナーに誘った。

 勇希も微妙に視線を泳がせる。反論の余地を失い、彼はガシガシと頭を掻いて大きなため息をついた。

「……ゴメンナサイ」

「それ、イモに謝ってるの? それとも私?」

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