妹さえいればいい。
小説家は妹キチ●イ (2)
こめかみを引きつらせる土岐に、伊月はおずおずとねる。
「……だ、だが、妹の入った風呂の残り湯で顔を洗うのは、妹がいる家庭では普通だろう?」
「普通でたまるかこの妹キ●ガイが!」
土岐は全力で絶叫した。
羽島伊月は16歳──高校2年生のときに新人賞を受賞してデビューし、それから約3年の間に1巻完結の作品を5冊とシリーズもの3本で合計20冊の本を出版した。
デビュー前に書いていた作品もあるとはいえ、それでも3年で20冊というのはかなりのハイペースであり、速度だけでなくクオリティも一定のレベルを保っているため、そこそこの数のファンがついている。
オリコンの文庫部門の週間ランキングトップ10にランクインしたこともあり、いわゆる「売れっ子作家」の部類に含めてもいいかもしれない。
執筆速度、発想力、ストーリーの構成力、キャラクターの造形力など、羽島伊月は今後ますます人気作家として羽ばたいていく資質を十分に備えている──のだが、最近発表した作品はどれも「そこそこ」クラスの売れ行きに留まっていた。
伊月の作品はすべて、メインヒロインが「妹」である。
妹キャラというのは安定して人気が出やすくはあるのだが、それでも出す作品全てが妹ヒロインだと「またかよ」と飽きる読者もいる。
伊月のほうも作品ごとに「他の作品とは違う妹にしよう」と差別化を図るため、巻を重ねるごとに妹のキャラ付けがどんどんピーキーになっていき、最近では主人公の妹に対する愛情表現にもどこか狂気が滲むようになり、それによって引いてしまう読者も少なからず出てきている。
伊月がさらなるブレイクを果たすためには一度「妹モノ」から離れ、新しいヒロイン像に挑戦するべきだと考え、新しいシリーズとして土岐が半ば強引に企画を進めさせたのが先ほど打ち合わせした『鮮紅の魔狩人(仮)』だったのだが、どういうわけか新たに恐るべき妹が生まれてしまった。
「まったく……あいつの妹狂いには困ったものだ……」
伊月の部屋を出て会社へと戻る道すがら、土岐健次郎は深々と嘆息した。一月の冷えた大気に真っ白な息が溶けていく。
と、
「あ、土岐さん。こんにちは」
涼やかな声で挨拶してきたのは、ウインドブレイカー姿の小柄な少年だった。手にはスーパーの買い物袋をぶら下げている。
「ああ、千尋くん。こんにちは」
土岐も挨拶を返す。
「今、ちょうどお兄さんと打ち合わせをしてきたところだよ」
「そうだったんですか。いつも兄がお世話になっています」
「いやいや、こちらこそ」
少年──羽島千尋は、伊月の弟である。
高校1年生。セミショートの黒髪で、色白で中性的な顔立ちの美少年。伊月の話によれば、成績優秀でスポーツ万能の完璧超人だとか。
伊月の実家は彼のアパートからバスで20分程度のところにあり、千尋は実家からちょくちょく兄の部屋に料理を作ったり掃除をしに来たりするため、担当編集の土岐とも顔見知りだった。
「今日も夕飯を作りに来たのかい?」
「はい、そうです」
「……まったくよくできた弟さんだ。伊月が羨ましくなるな」
土岐が心から感心すると、千尋は顔を赤く染め「いえ、そんな……」と小声で呟き、
「それでは失礼します。これからも兄をよろしくお願いします」
千尋は丁寧にお辞儀して、伊月のアパートのほうへと歩いて行く。
そのうしろ姿を見送りながら土岐は思う。
まだ高校生なのに礼儀正しくて、真面目で穏やかで、料理上手で甲斐甲斐しく兄の面倒をみてくれるパーフェクト美少年──。
「……あれで千尋くんが弟ではなく妹だったなら、伊月もあんな妹キチ●イにはならなかっただろうに……。妹さえいれば……いや、それだと伊月が作家になることもなかった気がするな……難しいもんだ……」
土岐との打ち合わせを終えてから数分後。
チャイムが鳴ったので伊月は部屋の扉を開ける。この時間に千尋が来ることは前もって連絡があったので知っていた。
「……おう」
「うん」

「……ん」
そんな会話とも呼べないやりとりをして、伊月は千尋を部屋に入れる。
兄弟だというのに、2人の間には微妙にぎこちない空気があった。
伊月の父親と千尋の母親が結婚して2人が兄弟になったのは、3年前──つまり伊月が小説家としてデビューしたのとほぼ同時期のことだった。
高校2年生と中学1年生という非常に多感な時期で、お互い突然できた兄弟に対してどう接していいのかわからず、当初は「同じ家に住んでいるだけの他人」とでもいうべき関係だった。
その関係が変わったのは伊月が大学に進学して一人暮らしを始めてからだ。
大学へは実家からでも十分に通えたのだが、通学にかかる時間を小説の執筆にあてるため……という名目で、家賃を全額自分持ちで部屋を借りた。
結局大学は1年目で中退してしまったのだが、編集部からも近い場所にあって都合がよかったため、そのまま同じアパートに住み続けている。
伊月の大学在学中も千尋はたまに実家から米や食料品を持ってきてくれていたのだが、大学をやめてからは部屋に来る頻度が増え、食事を作ったり掃除までしてくれるようになった。
専業作家となってもともと速かった小説の執筆ペースはさらに上がったものの、もともと低かった生活力はさらに下がり、生活リズムはどんどん不規則になり、部屋も汚くなっていく一方だったので、見るに見かねたらしい。
「すぐに作るから待ってて」
「……おう」
エプロンをつけた千尋は勝手知ったる様子で調理器具や食器を用意し、手際よく料理を作っていく。
伊月はそんな弟を横目にノートパソコンでカタカタと小説を書く。
30分ほどで夕食の準備ができたので兄弟2人でテーブルを囲む。
「いただきます」「いただきます」
行儀よく手を合わせて食べ始める2人。
エビチリ、八宝菜、炒飯という、伊月には作れないしっかりした食事だ。味のほうも大したもので、どんどん箸が進む。
千尋はそんな兄の食べっぷりに微かな笑みを浮かべ、ゆっくり行儀よく食べる。食事をする様子だけでも上品で非常に絵になる。
容姿端麗で成績優秀でスポーツ万能で料理上手で家事万能で性格は穏やかで物腰には品がある、まさに完璧超人。
そんな千尋に伊月は兄として、いや、同じ男として──劣等感を禁じ得ない。
だからついついトゲのある物言いをしてしまう。
「……なあ千尋。いつもいつもご苦労なことだが、他にやることはないのか? 例えばその……彼女とデートしたりとか」
すると千尋は少しムッとした顔になり、
「いないよ彼女なんて」
「そうなのか」
「うん」
千尋がモテないということはあり得ないだろうから、彼女ができないのではなく作らないのだろう。
「なんで作らないんだ?」
「……べつに欲しくないし」
なぜか拗ねたように千尋は言い、
「それに……兄さんが心配だし」
「べ、べつにお前に心配される筋合いはない!」
ムキになる伊月に千尋は小さく嘆息して、
「……兄さんがちゃんとしてくれたら僕も心配なんてしないんだけどね」
「お、俺だってやろうと思えば」
「できるの? 毎日3食、カップ麺ばかりじゃなくてちゃんと自炊して野菜も食べて、掃除して洗濯してゴミは分別して……え、えっちな本やゲームも整頓して」
「で、できますし……」
「できない」
ぴしゃりと言う千尋。
「兄さん、今日もまたセーターを他の洗濯物と一緒に洗ったでしょ。洗濯機にてきとうに放り込んで洗剤の量もてきとうでコースもてきとうでスイッチ押して」
見透かされて伊月は頰を引きつらせながら、
「え、こ、コース……? うぐ……だ、だが1つ間違っているぞ千尋!」
「え?」
「洗剤は入れてない! なくなってて買いに行くのも面倒だったから入れなかった!」
「なんで得意げなの……。ていうか、洗剤の買い置きは洗面台の下の棚に入ってるでしょ?」
「……そうなのか?」
「もう……」
千尋は呆れ顔で小さく嘆息し、
「……やっぱり僕がいないと駄目みたいだね」
なぜか少し嬉しそうに呟いた。
