タイガの森の狩り暮らし~契約夫婦の東欧ごはん~

江本マシメサ

第二話 ミハイル少年の、なげやり人生 (1)

 第二話  ミハイル少年の、なげやり人生



 突然、見ず知らずの女性との結婚が決まっていた。いくら、見とれるほどの絶世の美女相手とはいえ、受け入れることなどできない。

 今の状況もよく理解できていなかった。

 少年は女性に詳しい事情の説明を求める。

「ど、どういうことなんだよ」

「お前は針葉樹林タイガの森で倒れていた。そのままだったら、おそらく肉食動物に食われて、死んでいた」

 その言葉を聞いて、少年の肌がゾワリとあわつ。針葉樹林タイガには多くの肉食動物が生息している。その生態系の頂点に立つのは、トラである。他にも、凶暴なクマやオオカミ、ユキヒョウなどもいる。

「あのあたりはオオカミが多い。良かったな。あらがすべもなく、生きたまま肉を食われなくて」

 オリガが無表情で淡々と言うものだから、余計に恐怖をあおられる。あの森で逃げ出すことは、大変危険なことだったのだ。迫りくる死神には、追っ手や寒さだけでなく、野生動物も含まれていた。知らずに、とんでもないことをしたものだと思う。

「あんたが、助けてくれたんだな」

「ああ、そうだ」

「その、なんだ、ありがとう」

 オリガは少年の命の恩人であった。

 斜面に飛び込んで転がり落ちる途中に、木に頭をぶつけて意識を失ってしまったようだ。そのときの記憶があいまいになっている。また、落下地点から村まで結構な距離があるらしく、満身そうではたどり着けなかっただろう。

 本当に、運が良かった。奇跡的に、助かったのだ。そう実感して再度、礼を言う。

「感謝している。その、びとして、渡せる物など、何もないが──」

 ここに来る前に、私物はすべて没収されていた。身一つの状態なのに、殺されるとわかったので逃げ出したのだ。いったい、どうやって恩を返せばいいのか。少年は頭を抱える。

 ふと、ここで名乗っていないことに気づいた。

「あ、俺、名前……ミハイル。ミハイル・イヴァーノヴィチ・リューリク、です」

「歳は?」

「十七」

「なるほど。五つも年下か」

 オリガのつぶやきで思い出す──結婚がどうたらと言っていたことを。

「そうだ、結婚! あんた、いったい、どういうつもりなんだ?」

「お前は私が拾った。だから、夫にする」

「いやいやいや、それで納得するかよ」

「少々、事情があってな」

「それを話せと言っているんだ!」

 オリガは包み隠さず話した。これまで良き相手に出会えず、現在は遊牧民の青年に求婚されて困っていることを。

「というわけで、お前は夫の振りをするだけでいい」

 オリガはミハイルを保護する。その代わりに、ミハイルはオリガの夫を演じる。悪い話ではないだろうと、サラリと言ってのけた。

「……言っておくが、俺はワケありだ」

「ああ、だろうな」

 オリガはミハイルにぐっと接近し、耳元でささやいた。

「お前は、皇帝ツァーリの子だろう?」

 耳元にふっと熱い息がかかるのと同時に核心を突く言葉を聞かされ、ミハイルはどうもくする。

 ドクンと、心臓が大きく跳ねた。

「昔、父が言っていたのだ。皇帝の子は皆、美しい黒髪に緑の目である、と」

 黒い髪に緑の目は、皇族のあかしである。ミハイルはその特徴をれいに受け継いでいたのだ。むろん、それは上流階級の者のみが知りうることである。オリガの父が知っていた理由は謎だ。

「あんた、この村の近くにある大規模な建物について、知っているのか?」

「ああ。数十年前に突然やって来て、村にはなんの許可も取らず、建築したらしい。」

 そこは都で反乱を起こした貴族を収容する施設だと、ミハイルは説明する。オリガは驚きもせずに、冷静な声で「そうか」と答えた。

「俺は、そこに運ばれる途中だった。やつらはまだ、捜しているかもしれない」

 自分は面倒事なのだと、オリガに告げる。

「そもそも、こんな森の奥で、狩りの役に立たない男なんかを夫にして、どうするつもりなんだ」

 そう言ったミハイルは、自らの人生をぼんやりと振り返る。

 母親は働かず、男をとっかえひっかえして暮らしていた。恋人である男からもらったお金で、親子は長い間生活していたのだ。母親は夜になったら着飾って出かけ、昼間は寝て過ごす。

 そんな暮らしに嫌気がさして、ミハイルは八歳のころから働きだした。

 雇ってくれたのは、下町のパン屋。

 最初はかまど番から始まり、材料の買い出し、パンの配達、粉の計量と、段階を踏んで仕事を覚えさせてもらった。九か月前、やっと一人前と認めてもらった。人気のパンを焼くのは、ミハイルの仕事だった。仕事は順調。金をめて、いつか独立して、自分の店を出そう。そんなささやかな夢を見ていたなかで、悲劇が起こる。

 ミハイルが一生懸命働いて貯めていた金と共に、母親が失踪したのだ。

 今までも、生活費で服やかばんや靴を買い、使い込むことはあったがミハイル個人の貯金に手を出すことはなかった。けれど、今回は最後だからと書かれた手紙一枚を残していなくなってしまった。男と逃げたのだと、近所の人から話を聞く。

 近年、都の治安が悪くなっていた。

 政策の一環で物価が高騰し、市民たちは悲鳴をあげているのだ。都では毎日のように、暴動が起きている。そんな状況なので、どこか田舎に逃げたのだろうと。

 しかし、奪われたのは貯金だけではなかった。母親はミハイルの勤め先のパン屋に、親が病気で倒れたとうそをついて借金をしていたのだ。母親の駆け落ちのうわさが流れると同時に、噓も発覚する。

 パン屋の店主は、貸した金は返さなくてもよいという条件のもと、ミハイルを解雇した。

 善き店主であった。幼いミハイルを雇い入れ、根気強く指導してくれた。店主には感謝しかない。しかし、ミハイルは家族も金も仕事も、何もかも失ってしまった。

「タイガの森の狩り暮らし~契約夫婦の東欧ごはん~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます