タイガの森の狩り暮らし~契約夫婦の東欧ごはん~

江本マシメサ

第一話 タイガの森の小熊ちゃん (1)

 第一話  タイガの森の小グマちゃん



 ──殺せ、見つけ次第、殺すのだ!!

 男の怒号が森の中で響き渡る。

 目の前はせいぜんたる雪景色が広がっていた。吹く風はやいば。積もる雪は体を極限まで冷やし、命を削る塊となる。樹氷の並木道は美しいが、そんなことなど気に留めている場合ではなかった。

 やせ細った青年とも少年とも言えない男は、白い息を吐きながら、凍った道を滑らないよう注意して走っていく。

 ──どうしてこんなことに!?

 じわりと、まぶたの上が熱くなる。下町で母親と暮らし、パン屋の見習いをしながら、静かに暮らしていた。将来、自分の店を持つのが夢だった。けれど、その夢は突然壊れてしまった。

 ──ミーシャ、あなたの黒い髪は、とってもれいね。

 母親の口癖だった言葉が、本当は自分ではなく、他人をおもって口にしていたことなど、知りたくなかった。

 突然駆け落ちした母親は、とんでもない置き土産を残していく。

 あの売春婦ブリャーチ畜生チョルト豚めスビーニヤ雌犬スーカと、思いつく限りのぞうごんを吐き捨てる。しかし、相手には届かない。海を渡り、安全な異国の地へと逃げて行ったから。

 迫る男達の声は、だんだんと近付いてくる。

 男は選択を迫られていた。このまままっすぐ進むか、道を一歩れた先の急斜面を下るか。

 下手したら死ぬ。しかし、このまま走っていても、じきに追いつかれて殺されてしまうのだ。

 男は──腹をくくって斜面に飛び込んだ。


◇◇◇


 針のようにそびえる樹木、針葉樹林タイガの深い森を、三頭立ての犬ゾリに乗った妙齢の女性が駆け抜ける。そこは、広大な道、果てのない森であった。

 氷点下のなか、空気を大きく吸い込むとき込んで胸が苦しくなる。そんな状況のなかを、女性──オリガはソリに乗って風のように駆け抜けていった。

 白い雪に反射してキラリと輝き、風になびくのは、一本の三つ編みにした美しい金色の髪。

 すらりと背の高いオリガは、絶世の美女と言ってもいいだろう。目じりが切れ込んだ青い瞳に、すっと通った鼻、唇はぽってりと厚く色っぽい。しかし、温度を感じさせないアイスブルーの目は冷たい印象があった。加えて迫力のある美貌は近寄りがたい雰囲気である。

 よそおいは全身黒。

 頭をすっぽりと覆うのは『ウシャンカ』という、耳当ての付いた黒毛皮の帽子。それと同じ素材の、黒毛皮のがいとうまとっていた。外套の胸辺りにある青と白のライン模様は、出身の村を表すものである。

 この地域にある五つの村の一つ、『あおぼしの村』のあかしだ。

 オリガは青星の村の狩人かりゅうどである。

 そんな彼女が追っているのはクロテンというイタチ科の動物。毛皮の触りごこは極上。加えて保温性が高く、さまざまな性能にも優れているので、貴族に絶大な支持を得ている。特に、黒褐色の艶やかな光沢を帯びた毛皮は『やわらかな黄金』と呼ばれ、高値で取引されるのだ。

 あのクロテンを一匹仕留めただけで、しばらく暮らしていける。逃すわけにはいかなかった。ソリと体をベルトで繫ぎ、立ち乗り状態で獲物を狙う。

 背負っていた空気銃をくるりと前に持ってきて、銃を構える。チャンスは一度きり。銃の安全装置を外し、げきてつを指先で弾いてげきはつ可能状態にしておいた。距離が縮まってきたので、そろそろ撃とうかと思っていたが──急に犬達が走る速度を落としていく。

「こら、何をしているんだ、走れ!!

 いつもは忠実に命令を聞くソリ犬であったが、どうにも様子がおかしい。ついには、立ち止まってしまう。その間に、クロテンは遠くへと行ってしまった。

「いったい、どうしたっていうんだ……?」

 そうつぶやき、ソリから降りる。犬達は申し訳なさそうに、きゅうと鳴いていた。

 雪でかすむ景色に目を凝らすと、少し先に雪がこんもりと盛り上がっているところがあった。障害があったので、ソリ犬は止まったのだと気づく。ここは何度も行き来している道で、あのような障害は数日前までなかった。

 よって、雪が盛り上がったその下に、何かがいるということになる。

 オリガは犬達にその場で待つように命じ、銃口を向けたまま障害へ近付いていく。まず、遠くから石を投げてみた。反応はなし。もう一度、今度は一回り大きな石を投げてみた。こちらも、反応はない。さらに接近して、銃口で突いてみる。

 雪の中に差し込んですぐに、何かに当たった。ちらりと、黒い毛が見える。この大きさから推測するに、子グマか。子グマの毛皮はやわらかく、温かい。毛布にするにはうってつけだった。そろそろ新しい物をこさえるのもいい。オリガはそんなことを考えながら、銃で雪を払っていく。すると、想定外のが出てきた。

 常にクールなオリガであったが、目を見開くことになる。

 雪の中に埋もれていたのは──黒髪の少年であった。

 年頃は十六から十七くらいか。白い頰は赤く染まり、まだ血が通っているように見える。オリガはしゃがみ込み、手首から脈拍を読み取る。すると、トクン、トクンと、わずかに鼓動を感じた。まだ、生きているのだ。生存確認を終えると、すぐさま少年を抱えてソリの荷物置きに乗せる。生後数か月の子グマくらいならば軽々と担げるオリガにとって、十代の少年を持ち上げることは容易たやすかったのだ。

 犬ゾリを逆方向へと変え、走るように指示を出す。犬達は全力疾走で、村のある方向へと駆けて行った。


 村へ着くと、オリガはすぐさま少年を、くすのもとへと運ぶ。幸いにも切り傷程度で、凍傷などはなかった。

 薬師いわく、落ちてすぐに発見したのだろうと。かぶさっていた雪は、降り積もったのではなく、斜面から落ちてきたものだったのだろう。

 パチンと、暖炉の火がはぜる。

 毛皮のじゅうたんの上に布団が敷かれ、そこに少年は横たわっていた。老齢の薬師の顔はえない。白く染まった眉を、極限まで下げていた。少年の衣服を指差し、困ったように言う。

「この者は、いつぼしの村の者ではありませんね」

「だろうな」

 オリガはぶっきらぼうに返す。

 この針葉樹林に囲まれた森の周辺には、ぼうせいを描くように五つの村がある。住人達は、互いにどの村に所属しているかわかるよう、まとう毛皮に家紋のような印を入れていた。

 しかし、今しがたオリガが拾った少年は、どこの村の所属でもなかった。

「この身なりからすると──」

 オリガと薬師は、少年の衣服に再度視線を落とす。白いシャツに、パリッとのりの利いたズボン。外套は高級品である山羊カシミア製。すぐに、少年が貴族であるとわかる。

 加えて、顔立ちも整っていた。すらりと伸びた手足に、サラサラの黒髪。瞼を縁取るまつは長く、鼻筋もすっと通っていた。閉ざされた唇は薄く、肌はきめ細か。十代の少年特有の、危うさが混じった美しさがあるのだ。

「おおよそは、流刑の身となった貴族の子息でしょう」

「そうとしか思えん」

 反乱を起こした貴族を収容する施設が、森を出た先にある平原に建てられていた。ここ数か月で運ばれる人数が増えて、行き来する軍人も多くなっている。都の治安が悪くなっていると、村を訪れた商人達は口々に噂していたのだ。

「オーリ、せっかく助けた命ですが──」

 オーリとはオリガと親しい者だけが呼ぶ名だ。今は、目の前にいる子どものときから付き合いのある薬師以外誰も呼ばないが。オリガは自らの口元に人差し指を当てる。

「オーリ?」

「内密に」

「彼を、どうするつもりですか?」

 オリガは少年の手を取り、えんぜんほほみながら言った。

「この男は、私の夫にする」

「そ、それは……!?

 オリガ・アンドレーエヴナ・グラトコヴァ。御年二十二歳。独身。この周辺の村で結婚適齢期は、十四から十六である。よって、彼女は盛大にき遅れていた。それは、オリガの特別な生い立ちが原因であった。

 村一番の狩りの名手である父のもとで男手一つで育ち、彼女は立派な狩人となった。成人を迎えようとしていたある日、悲劇が起こる。唯一の家族であった父親が他界したのだ。

 通常、結婚相手を決めるのは父親の役目。当時、十五歳だったオリガは、天涯孤独の身となり、結婚は難しくなってしまったのだ。だが、残念なことに、嫁き遅れた理由はそれだけではない。彼女はクマ猟を得意としており、森でクマを襲う唯一の存在であるトラに喩えて、『もう』とも呼ばれていた。絹のような金の髪も、トラの冬毛を思わせる美しいものなのだ。

 そんな勇ましくも麗しいオリガであったが、村の男達は畏怖している。好んで話しかける者は、ほとんどいない。

 伴侶となる女性は、主にないじょの功に努めることを常とする。男並みに狩猟をするオリガに、嫁のもらい手などなかったのだ。

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