婚前同居~イジワル御曹司とひとつ屋根の下~

水守恵蓮

婚約の条件はお試し同居 (3)

「ええっ!?

 あまりに平然と呟く樹さんを、私は大きく見開いた目で呆然と見つめた。

 ポカンとするだけでなにも言えない私を、樹さんは軽く見遣る。すぐに目を伏せ、ゆっくり歩いてきた。そして、私の横をすれ違いざま、小さくひと言――。

「逃げるなら、さっさと逃げろ」

 私の胸が、ドクン……と重苦しい音を発した。

 思わず振り返った時には、樹さんはこちらに目を遣ることもなく、社長室を出ていってしまっていた。私は口をパクパクさせて、開け放たれたドアの向こうに小さくなっていく背を見送るだけ。

「帆夏さん。君は樹の提案に同意してくれるか?」

「えっ!?

 背後から探るように聞かれて、私は戸惑いながらモゴモゴと返事をした。

「ど、同意と言われましても……。だって一緒に生活って……それって……」

 樹さんは〝お試し同居〟って言い方をしたけど、間違いなく同棲ってことだ。今まで誰ともお付き合いしたことのない私が、婚約も認めてもらえない状態でいきなり同棲だなんて……!

 心の中では激しく動揺していたけれど、まるで苦虫を噛み潰したような社長の表情を見たら、〝絶対無理です〟とは言いにくくなってしまう。

「帆夏さん。あのドラ息子にはある程度ガツンと言う必要があるが、あれ以上機嫌を損ねると、手の施しようがない事態に陥りかねん。試すなど、失礼は承知だが、ここはひとつ、樹の条件をのんでもらえないだろうか?」

 さらにしんに頼み込まれ、私も言葉に詰まる。

「あ……う……でも、まだ結婚前なのに、その……」

「樹も最低限と言ってることだし、ちょっと反抗したいだけだろう。短期間だけのお試し同居、樹に付き合ってやってくれないか?」

 社長の読みは、私にはかなり楽観的に聞こえた。せいぜい〝ドラ息子のご機嫌取り〟くらいにしか考えてない。もちろん、お試しのまま終わるとは思ってないんだろうし、私と樹さんの婚約は無事に成立すると信じ切っている。

 だけど。

「一緒に住んで、今以上に嫌われちゃったら……」

 ボソッと漏れた不安たっぷりの私の独り言は、社長の耳には届かなかったみたいだ。「は?」と短く聞き返されて、慌てて大きく首を横に振ってごまかす。そしてそれ以上はなにも言わず、ただ肩を落として息を吐いた。


 私の父が社長として経営していた生駒カンパニーは、主にアジア諸国を相手に貿易取引を行う専門商社だ。中小企業ではあるけれど、祖父の代から続いた会社で、長年に渡り各国と友好関係を築き、安定した業績を誇っていた。

 そこに目をつけたのが、新事業に参入しようとする国内最大手の海運会社、春海海運の現社長だった。春海海運が新たに手掛ける事業……というのは、超ゴージャスなアジア各国を周遊するクルーズツアー就航だ。このクルーズツアーは、大手旅行会社が企画・主催するもので、航行に関して春海海運が独占契約を結んでいる。他にも外食産業やイベント企画会社など日本のトップ企業が参画していて、立案段階からマスコミに取り上げられるほど、世間の注目を浴びていた。

 春海と生駒、両社の業務提携交渉が進む中、互いに長期利益をもくみ、合併という話が持ち上がった。私の父は、これまで二代続いた社名を手放すという賭けに出た。会社を守っても、生駒家に跡を継ぐ息子がいないというお家事情もその裏にはあった。

 私が大学生になった頃から始まった合併交渉は、きょくせつを経て、二年前に合意に至った。樹さんも言っていたように〝ウィンウィン〟の円満合意。

 だけど、世間的には、生駒カンパニーが春海海運に吸収されたように捉えられる。それが、社長である父にとって唯一のネックだったそうだ。

 これまで生駒カンパニーで働いてきた、たくさんの社員のプライドを守るために、まず父は、自分が副社長の座に就くことを条件にした。そしてそれが父の代だけの約束にならないように、最終合意の際、もうひとつ、絶対条件を挙げた。それが、私と樹さんの結婚だった。

 合併合意の調印式を終えて帰宅した父は、満面の笑みを浮かべて、私に婚約の内定を告げた。

『喜べ、帆夏。お前にとって最良の縁談だ。これでお前の一生の幸せも、生駒に関わった何千何万という社員の誇りも、保証されたんだぞ』

 酔っ払って赤ら顔の父が声高らかに発した、とんでもない言葉……。

 もちろん、当時まだ大学生だった私は、すんなり『はい』とは頷けなかった。いくら良縁だと言われても、父の会社のために、顔も知らない人と婚約、結婚なんて。樹さんの言葉じゃないけど、いつの時代の話だと、私だってそう思った。

 とはいえ、私を心配する親心だと胸を張って言われれば、もうぐうの音も出ない。

 私は、十歳年の離れた姉とは違い、特に美人でもなく多才なわけでもない。

 好奇心旺盛で自分から出会いを求め、見事、将来有望な青年実業家と結婚した姉。対して私は、恋には及び腰で、まともに男性とお付き合いしたこともなかった。

 次女……根っからの末っ子気質というんだろうか。家族全員にかわいがられて何不自由なく育ち、二十二歳になるまで呑気にのほほんと過ごしてきてしまった。

 おかげで、今あるのは生駒の姓だけ。他にはなんの取り柄もない。そしてみんな、私の行く末を案じていた。

 この時代、この年で政略結婚なんて!とは反論できなかった。黙って聞いていれば、父の言う通り、その縁談は確かに私にとって最良で、一生の幸せを約束されたようなものだと思ったから。政略結婚にありがちな年の離れたおじさんが相手ではなく、私より五歳年上なだけ、というのも安心材料になった。

 正式な顔合わせや婚約は合併後、落ち着いてから、という条件はあったけれど、私は一刻も早くお会いして、親の決めた婚約者を〝好き〟になりたかった。いや、〝絶対に好きになる〟と自分に刷り込み、一生に一度の結婚を自分の手で幸せなものにしてみせると、心に決めた。

 ところが――。

 自分に刷り込むまでもなく、私は樹さんにひと目で恋に落ちてしまったのだ。


 お見合い翌週の土曜日。私は大きなスーツケースを手に、樹さんと期間限定のお試し同居をするマンションの前に佇んだ。

 私と樹さんの実家のちょうど中間地点にある、東京でも有数の高級住宅街のど真ん中。私は目の前に聳え立つ豪華なタワーマンションを、怖々と見上げた。

 有名建築デザイナーの手によるスタイリッシュでお洒落な外観からも、ここが選ばれし人間のための居住空間というのがわかる。

 グランドエントランスにはコンシェルジュが常駐。最上階には居住者専用フィットネスジムまで完備されているらしい。

 普通の感覚だったら、『すご~い! 素敵!』とはしゃいで喜べるんだろうか。残念ながら、今の私はなんとも言えず不安な気持ちでソワソワするだけ。期待とか希望はまったくない。

 新居の準備は春海社長が人を使って済ませてくれていて、私は昨日の終業後、ぜんとした表情の樹さんから、マンションの地図と鍵を受け取っただけ。

『俺の方は、とりあえず昨夜から入ってる。お前は都合のいい時に荷物持ってこい。全っ然急がなくていいから』

 素っ気ない不貞くされたような口調。当然ながら、歓迎されてる気はまったくしない。

 昨日の樹さんを思い出して、私は重い溜め息をついた。

 どうしよう。本当に悪い予感しかしない……。

 生駒の家に生まれ育ったというだけで、なんの取り柄もない私が、樹さんと同居なんて。あの樹さんが、いくら会社のためとはいえ政略結婚……しかも私相手の……。それを文句も言わずに受け入れてくれるとは思ってなかったけど、まさかこんなことを言い出すとは考えもしなかった。

 樹さんは社長には『人権侵害ギリギリの最低ライン』なんて言ってたけど、このお試し同居を利用して、政略結婚そのものを破談にしようとしてるに決まってる。

 私はずっと実家暮らしで、身の回りのことは母がやってくれていたから、家事はほとんどしたことがなく、当然自信もない。それを理由に、妻としてふさわしくないと判断されたら、どうしよう。

 花嫁修業は、正式に婚約が成立してからゆっくりやろうと思っていた。なんでもっと早くからやっておかなかったんだろう、私……。

 婚約を言い渡されてから、二年近く思い描いていた幸せな人生が、ガラガラと音を立てて崩壊していくようだった。

 このマンションの高層階角部屋の3LDKを、社長はポンと買い取ったと聞いた。やっぱり、三カ月のお試しで終わるとは思っていなかったようだ。

 三カ月が過ぎても、私はここで樹さんと結婚生活を送ることができるんだろうか。そんなことまで深く深く考えて、私は大きく肩を落とした。

 いや……それでも、まったく望みがないわけじゃない。一緒に暮らせば普段の私を知って、好きになってもらえるかもしれない。うん、可能性はゼロではない……はず。

 エントランスの前でスーツケースを手に建物を見上げながら、浮かない顔で溜め息をつく私を見て、住人らしい若い夫婦がさんくさそうに通り過ぎていった。

 チラッと視線を返しただけでも、ご主人も奥様もかなりハイセンスだ。しかも仲がよさそうで、夫婦というより恋人同士みたい。

 いいなあ~、お似合いだなあと思いながら、その背を見送った。

 そうだ、まずは恋人になるのを目標にすればいいんだ。私はそう考え直した。

 お試し期間は三カ月。いきなり婚約者と認めてもらおうと気負うから、ゆううつになる。そうじゃなくて、まずは恋人にしてもらう努力をすべき。

 樹さんに好きになってもらうのが、私がこの同居で目指すべきゴール。そう考えれば、家でもオフィスでも目標はそう大きく変わらない。

 とにかくこの三カ月を乗り越えられるかどうかで、この先の私の人生が七色の幸せに輝くか、色褪せてくすんでいくか、極端に変わってくる。

「よ、よし! 頑張れ、私!!

 気合いを入れようとして、頬を両手で一度パンと叩く。私は意を決してグランドエントランスに足を踏み出した。

 コンシェルジュさんに挨拶をして、奥まったエレベーターに案内してもらう。ゴロゴロとスーツケースのキャスターを鳴らす私に、不審げな視線を向けられたのは感じたけど、さすがに職業柄か、私がしっかり顔を上げている時は愛想たっぷりの笑顔だった。

 エレベーターにひとりで乗り込み、オフィスビル並みの階数まで一気に上がる。ほんの十数秒でドアが開き、私はフロアに降り立った。両サイドに広がる廊下を見渡すと、異国の高級ホテルにフラッとひとり旅に来たような感覚を覚えた。

 私が目指すのは、このフロアの一番端の角部屋。私はスーツケースを引っ張ってその部屋の前で足を止めた。

 一度ゴクッと唾を飲んでから、昨日もらったばかりの鍵を取り出し、恐る恐るドアを開けた。なんだか強盗に入ったような気分で、急いで玄関に身を滑らせる。

 背後でバタンとドアが閉まる音を聞いて、心の底からホッと大きな息を吐いた時。

「なんだ、早いな。もう来たのか」

 そんな声が耳に届き、私は顔を上げた。途端にギョッとして、一瞬呼吸の仕方も忘れてしまう。

「婚前同居~イジワル御曹司とひとつ屋根の下~」を読んでいる人はこの作品も読んでいます