婚前同居~イジワル御曹司とひとつ屋根の下~

水守恵蓮

婚約の条件はお試し同居 (2)

「おかしいと思ってたんだよ。いつもいつも、バカじゃないかってくらい『好きです好きです』って。どこかちょっと頭の弱い女なのかと思ってたけど」

「で、でも。好きなのは本当だし、私……」

「なるほどね。利害関係のある政略結婚相手だって知ってたからか」

 私の言葉にはまったく耳を貸さず険しく眉を寄せて、樹さんはハアッと大きな息を吐き出した。

「慣れてるようにも見えないのに、随分と軽く言う女だなって思ってたんだよ。そりゃあ、本心じゃないんだ。言うだけなら簡単か」

「ち、違いますっ! 私っ……!」

「あ~、俺、女なら誰にでも見境ない男じゃなくてよかった。言っとくが、俺はこんな結婚、認めない。まだ半分以上残ってる俺の人生、お前なんかに縛られてたまるか。……いくら会社のためでも」

 鼻先が触れそうになるくらいまで顔を近付け、その鋭い瞳で私を射貫くように睨みつけてから、樹さんは肩に置いた手に力を込め、私を突き放した。

「きゃっ」

 一瞬バランスを崩して足元がおぼつかなくなり、私はよろけた。転びそうになって、その場に膝をついてしまう。

 樹さんはパンツのポケットに手を突っ込み、足元の敷石をじゃりっと踏み鳴らして私を見下ろした。その姿を大きく振り仰ぎ、

「ほ、本当に、好きなんです。樹さん」

 ドキドキしながら反射的に言い返す私に、樹さんは心底嫌そうに眉をひそめた。

「生駒のそれ、すっかり口癖だな。俺の顔見たらそう言うように、頭ん中プログラミングされてんじゃねえの? おかげで完全に聞き飽きた。……そんな条件反射みたいな言葉聞いても嬉しくもなんともないし、グラッともこない。まあ、そうじゃなくてもお前はないわ」

 そんな毒舌で、いつもと変わらず私の気持ちをスルーしてくれる。

「あの……」

 樹さんがどう思っても、本当に本気で言ってるのに。

 確かに、私はいつも樹さんに、言葉でも態度でも〝好き〟と伝えてしまう。だけど、それは本当に好きな気持ちを抑えられないから。計算も嘘もなく、全身から沸き起こってしまう、そんな感覚に近いのだ。

 でも、いつにも増してヒートアップした樹さんには、そんな気持ちが伝わるはずもない。樹さんは怒り心頭で、私にクルッと背を向けた。

「誰がお前なんかに政略されて結婚するか」

 いまいましそうな口調で言い捨てると、しゃがみ込む私を置いて、ひとりでさっさとホテルの館内に戻ってしまった。

 けれど――。


 その翌日。

 週が明けて出勤した私は、朝一で社長室に呼び出された。

 ドアを開けた途端視界に飛び込んでくる、オーク素材の立派なライティングデスク。東京のオフィス街を一望できる壁一面の窓を背に、革張りのチェアにデンとちんしているのは、ちょっと白いものが混じったすっきりと短髪の中高年の男性。スラッとした体形からも威厳と風格を漂わせる、この会社、春海海運の春海社長だ。

 その隣に不貞くされた表情で立っているのは、右の頬骨のあたりを腫らした樹さんで、私が社長室に入ってからずっと目を逸らしている。

「帆夏さん、昨日はこのバカ息子が大変失礼なことをしでかしたそうで……。本当に申し訳ない!」

 社長はそう言って立ち上がると、樹さんの頭を力いっぱい押さえつけながら、ふたり同時に頭を下げた。

「そ、そんな。私なんかに頭を下げないでください。私、全然気にしてませんから」

 自分が勤務する会社の社長に頭を下げられるのは、さすがに落ち着かない。

 私の返事を聞いて、社長はゆっくり頭を上げる。こちらに向き直った時には、どこか神妙な表情だった。

 けれど。

「……だろうな」

 ボソッと呟く樹さんを、社長は眉間に深いしわを刻んで睨みつけた。

 樹さんは唇を尖らせながらそっぽを向き、社長に耳を引っ張られて「いてっ」と小さな声をあげる。

「なんでも、大変失礼なことを言ったとか……。いい年して、いつまでもいきがってばかりで口の悪いドラ息子ですが、どうか、見捨てないでやってください」

 社長がひたすらしたにそう言うのを聞いて、「ちょっと待てよ」と樹さんが遮った。一方的にこき下ろされたのが不満な様子で、樹さんはムッと口をへの字に曲げている。

「樹。この期に及んでまだくか。昨夜散々話し合ったはずだ。お前も納得したじゃないか」

 社長が忌々しげにそう言うと、樹さんは「ふん」と鼻を鳴らして、この上なく不機嫌な表情を浮かべた。

「うちの会社の新規事業開拓の一環で、生駒カンパニーのこれまでの業績とノウハウが必要だった。業務提携ではなく合併した方が、今後の事業拡大も期待できる。お互いウィンウィンの合併。……それはわかるけどな」

 社長に早口でそう言って、樹さんは肩を落として大きな溜め息をつく。

「戦前戦後の日本じゃないんだ。今や皇族だってわりと自由に恋愛結婚する時代だってのに。会社のために結婚しろって言われて、無抵抗であっさり〝はい〟って頷く跡継ぎがどこにいるんだよ。コイツくらいなもんだろ……」

 そう言いながら、私にちょっとしんらつに流し目を向けてくる。

 反射的に怯む私に気付き、社長が厳しい口調で「樹」とたしなめた。

 樹さんは言葉を切って肩を竦める。

「やり方が汚ないんだよ。そんな約束したこと、俺にはひと言も言わないで、合併から半年経って、いきなり見合いの場に連れ出して『実は……』はないだろ。完全に逃げ道断った状態で、そくすぎる。息子の人権なんだと思ってんだ」

「恋愛結婚などと、どの口が言う。くだらない遊びの女だけを無駄に増やしていく息子に、なにが跡継ぎだ、人権だ。バカもん」

「なっ……!」

 社長は樹さんにさげすむような視線を向けて、シレッと言いのけた。その言葉はそれほど的を外れていなかったのか、樹さんの方がギョッとして言葉をのみ込んだ。

「若いうちならそれも目をつぶったがな。樹、お前ももう二十八だろう。私が先代からこの会社を継いだ年だ。いい加減、春海の跡取りとしての自覚を持て。帆夏さんとの縁談は、腰を据えるにはいいタイミングだ」

 樹さんと同じように早口で畳みかける社長。そこには親としての威厳だけじゃなく、日本経済を支える一企業のトップとしての絶対的な権力を感じる。

 その感覚は樹さんも同じだったんだろう。彼はムッとしたように唇を結んだだけだった。

「後腐れない適当な女で遊んでないで、そろそろ将来を考えて種をけということだ」

「種って……おい、それが親の言うことかよ!」

 冷酷と言ってもいいほど経営者に徹する社長に、樹さんは目を剥いて怒鳴った。

 そんなふたりの姿を目の前にして、私はオロオロしながらも、そこから立ち去ることもできずに、肩を縮ませるしかなかった。

 樹さんと社長の会話は平行線のままで、どのくらいの沈黙が続いただろうか。樹さんが目を伏せて、フウッと大きな溜め息をついた。

「……わかった。じゃあ、俺にも条件がある」

 静かな低い声に、私はおずおずと顔を上げた。樹さんは社長相手に胸を反らし、その前で腕組みをして、チラッと私に視線を向ける。

「お前に条件を出す権利があると思うか、バカもん」

「頭ごなしに否定しないで、まあ聞けって。たとえば、俺と生駒がこのまま言いなりになって結婚したとして。もともと性格が不一致な上、我慢ならない習癖とか性癖があって、早々に離婚訴訟……なんてことになったら、どうする? 次期社長として企業イメージを悪くするし、何千人っていう社員にも示しがつかない。なにより傷もんになるのは女の方だろ」

 強気で畳みかける樹さんに、社長も「ふん?」と耳を傾ける。

 その機に乗じて、樹さんが社長のデスクにバンと音を立てて手を置いた。そのまま社長を斜めの角度で覗き込む。

「そうならないように、俺に提案がある。短期間でいい。正式に婚約する前に、試しにコイツと同居させろ」

「へっ……!?

 樹さんの真剣な提案に、社長よりも私の方が先に反応した。無意識に声をひっくり返らせる私に、樹さんは涼しい瞳を向けるだけ。

「こうなったら、人権侵害ギリギリの最低ラインまで譲歩してやる。どうしても無理じゃない限り、このふざけた結婚も受けてやる」

 樹さんはチッと舌打ちしながら、背筋を伸ばして姿勢を正した。

 社長は黙って顎をしゃくるようにして、樹さんに続きを促す。

「俺と生駒はオフィスでたった半年、先輩後輩の関係で過ごしただけだから。それじゃ、性癖までわからないんだよ。なら、一緒に暮らしてさらけ出すしかないだろ」

「えっ……い、樹さ……!?

「ふむ……。それも一理あるな」

 私を丸無視して、社長は何度か小さく頷く。

 社長の反応に私はあんぐりと口を開けた。けれど、ひと言も返す間は与えられず。

「じゃ、決定」

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