エリート弁護士は不機嫌に溺愛する~解約不可の服従契約~

御堂志生

第一章 愛人契約 (1)

第一章 愛人契約



 夏海の勤務先は、東京都、港区にある高層オフィスビルの二十階、フロアの一角を占めるいちじょう如月きさらぎ法律事務所。

 その代表を務めるのが一条聡、三十五歳。

 彼は日本国内の大学を卒業後、ハーバードのロー・スクールを首席で卒業した、企業法を専門とする国際弁護士だ。マサチューセッツ州とニューヨーク州で実績を積み、帰国後すぐに、海外企業専門の法律事務所を親友の弁護士、如月しゅうと共同で開業した。

 現在、企業弁護士として日本国内では第一人者と呼ばれている。

 そして、夏海の上司であり──愛人だった。


 深夜の一時少し前、ふたりはビルの正面玄関から一緒に出た。幸い今夜も、ふたりの情事は誰にも知られずに済んだようだ。

「今日は成城に戻る。明日の夜には帰宅する。君は?」

 タクシーの中、聡は書類に目を落としながら夏海に尋ねた。つい先ほどの情熱が噓のような無機質な声だ。

「わたしは、明日は朝から母の病院に。……お戻りは何時ですか?」

「十九時は回るだろう。夕食は家で取る」

「わかりました。用意しておきます」

 そのまま会話が途切れる。聡がじょうぜつになるのは仕事とセックスのときだけだ。わかっていても、抱かれたあとは寂しさを感じる。

 ふたりを乗せたタクシーは池尻大橋の駅近くで停まった。少し歩けば二十七階建ての高層マンションのエントランスがある。そこに夏海の……いや、聡の家があった。

「お疲れ様でした」

「ああ、お疲れ」

 別れを惜しむこともなく、夏海が車から降りるなり、大きな音を立てドアは閉まった。

 彼は視線を書類に向けたまま、一度も夏海のほうを見ようとしなかった。今はもう、夏海が横に乗っていたことすら忘れているだろう。

 車のバックライトが見えなくなるまで、夏海は愛する人を見送った。

 八時から二十二時まではフロントにコンシェルジュが立ち、今の時間帯は警備員がエントランスホールを監視していた。

「お帰りなさいませ。一条様」

 夏海に話しかけたのは警備員で、夜間は彼がコンシェルジュの代わりも務めている。

「ご苦労様です。郵便や荷物はありますか?」

 警備員から郵便物の束を手渡され、夏海は「ありがとう」と微笑んだ。

 聡宛ての郵便物がほとんどだが、その中に、夏海宛ての封書が一通紛れ込んでいた。長形三号の茶封筒、差出人名は〝みどり温泉病院〟と書かれてある。

(もう、今月分の請求が来たのね)

 夏海はため息をつきながら、心の中で呟く。

「あの……今夜はおひとりなんですよね。下はしっかり警備しますから、安心してお休みください」

「どうもありがとうございます。朝までよろしくお願いしますね」

 顔を上げると、夏海は会釈してエレベーターに向かった。

 二十七階建ての最上階に聡の部屋がある。マンションの管理事務所に届け出たふたりの関係は──夫婦。

 仕事の都合上、夏海には旧姓の『織田』で郵便物が届く、と伝えてある。

 関係者がそれを信じているかどうかはわからない。だが、一億円以上のマンションを即金で購入した弁護士の不興を、好んで買いたい人間はいないだろう。

(そうよね、誰も一条先生には逆らえないのよ)

 ダブルオートロックのキーをエレベーター前のセンサーにかざしながら、夏海は初めてその鍵を手にしたときのことを思い出していた。


 夏海が聡の事務所に就職したのは、大学を卒業した四年前の春。

 弁護士を目指していた夏海は、大学三年で司法試験予備試験に合格。四年のときには司法試験に合格し、卒業後に司法修習を受ける予定だった。

 ところが卒業直前の冬、当時五十六歳だった母、ゆきが若年性認知症と診断されたことで、すべてが変わってしまう。

 その診断が出る四ヵ月ほど前──。

『なっちゃん。お父さんがね、帰って来ないのよ』

 ある日突然、自宅を出てしばらくすると、母からそんな電話がかかってきた。

 当時の夏海は司法試験を無事終え、卒業までに少しでもお金を貯めておきたくて、卒論とアルバイトに精を出す毎日だった。

 最初にその電話を受けたとき、なんの冗談かと思った。夏海の父、しんはその二年前、彼女が大学二年のときに過労が原因の心疾患で亡くなっていたからだ。

 思えば、両親は仲のよい夫婦だった。

 大学教授を父親に持つ母は、中卒で板前をしていた父との結婚に反対され、駆け落ち同然で一緒になったという。決して贅沢な暮らしではなかったが、三人の子供にも恵まれた。

 父は亡くなる四年前、三十年近く勤めた料亭から独立して小料理屋を開店した。父が倒れたのは、店が軌道に乗り始めた矢先のことだった。

 父が亡くなったとき、兄のしんいちは就職先の大阪で結婚、姉のあきも名古屋で就職していた。兄姉が戻ってくることは期待できず、ひとりでも店を続けたいという母を、夏海が支えて頑張るしかなかった。

 司法試験に向けての勉強と家の手伝いは両立が大変だったが、合格したとき、母は本当に喜んでくれた。母も少しずつ元気を取り戻している。

 そう思っていたのだが……。

 母は最愛の夫を失ったショックから立ち直っておらず、末娘の将来が決まったことに張り詰めていたものが切れてしまったのかもしれない。まるで砂の城が崩れるように、母の心は少しずつ壊れていった。

 そして、母が病気と診断され、夏海はようやく家計が火の車であることを知る。

 板前の父の給料と母のパート代で、兄姉をそれぞれ私立の大学と短大に行かせた。それだけでも苦しかっただろう。

 夏海が遠慮して高校卒業後は就職する、と言ったとき、

『三人の中で夏海が一番賢いんだぞ。進学しないでどうするんだ』

 父はそう言って夏海まで四年制の大学に入れてくれたのだ。

 そして店の開業──貸し店舗ではあったが、内装や設備、運転資金はすべて借金。父の死亡保険金は借金の返済でほぼ消えていたことを知った。

 母の病名がわかったあと、夏海は悩んだ。

 卒業まではバイトをかけ持ちしながらでも学費と生活費は捻出できる。だが、司法修習中のアルバイトはできない。無利子のお金を借りることはできるが、それだけですべてを賄えるわけがないだろう。

 何より、司法修習を受けるためには家を出て司法研修所で集合修習を受けなくてはならない。

 そして医者からは、母をひとりにすることは危険と言われてしまい……。

 夏海は決断した。

 司法試験は一度合格すれば、司法修習を受けるまでの有効期限はない。

 母の面倒をみたあと、司法修習を受ければいい。夏海はそう考え、大学教授の推薦で聡の法律事務所に事務員として就職した。

 しかし、間もなく母はいっときも目が離せないほど病状が進んでしまう。

 母に付き添っていては仕事に行けない。でも、誰かが介護しなくてはならないのだ。

 夏海は兄に相談し、彼女が生活費を送金する約束で、母は大阪の兄夫婦と暮らすことに決まった。ところが、わずか一ヵ月で介護の大変さに音を上げた兄嫁が、実家に帰る騒ぎを起こしてしまう。

 幼い子供を抱えた兄に泣きつかれ……夏海はふたたび母の面倒を見ることになった。

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