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丑之刻子、参ります。

黒史郎

第一呪 丑満に呪うは女と烏猫 (2)

 おそらく蛞蝓なめくじの這った跡を掃除するブラシとか、犬のうんこを地面からこそぎ取るブラシとか、そういうどうを製造している、至極つまらぬ企業に違いない。

 そんな場所で無駄な汗水を垂らして作りたくもない笑顔を作って、あくせく働く社員どもを見ていると、どいつもこいつも馬鹿なんじゃないかと思えてくる。

 とはいえ、わたしにとって、この環境はひじょうに都合がいいのである。

 呪詛師という仕事柄、素性が割れることは命取り。

 母から受け継いだ丑之のめいを使っているのも、そういう理由だ。

 こうした有象無象の直中におれば、誰もがわたしをただのOLと見てくれる。ピンクのベストとスカートに白いブラウス、このどこにでもいそうな「おふぃすれでぃ」らしい衣もいい。

 これで誰もわたしが──

「──くん、おーい、きこえてないのかー?」

 これで、誰もわたしが《呪い姫》であることに──

「おいってば、うまくん? おーい」

 これで、誰もわたしが《呪い姫》であることに気づかな──

「おーい、馬野くん、わざと無視してるのか、馬野ときくーん」

 先ほどから五月蠅うるさい五月蠅いと思っていたが、この第三課で課長と呼ばれているすんじょただよしが、自分のデスクからわたしを呼んでいた。

 わたしは心の中で、彼をくそかまきりと呼んでいる。

 瘦せて貧相な出っ歯面に、昔の『こども科学実験セット』に付いていた虫眼鏡のようなレンズの眼鏡をかけ、頭髪のはくらく著しいザビエリズムなかっ頭は周りの薄毛で無理やりフォローしたためにぼうのようになっている。その顔が蟷螂と酷似しているのだ。

 この男の口臭は掃除を怠った畜舎なみで、瘦せのくせに汗っかきでワイシャツの襟が尿染みのように黄ばみ、近くを通るとナルトの酢漬けみたいな臭いがする。時々、鼻の下に臨時で黒子ほくろが現れたかと思ったら案の定鼻くそで、消えたと思うと彼奴きゃつの湯飲みの中で揺蕩たゆたっていたりする。そういう不快極まりない男なのである。

「うーまーのーくーん、なんだ、死んでるのかね、おーい」

 くすくすくす。

 オフィスの中で、くすくす虫が鳴き始める。

 これは糞蟷螂がわたしを馬鹿にした時や、この男の口から絶体零度のジョークが放たれた時に鳴きだす虫だ。

「うーまーのーくーん、あーそびーましょ。かっとばせー、う・ま・の! 石焼ぁぁぁき、うまのぉぉぉ、おいもだよっ!」

 これ以上、あの口臭工場からわたしの本名を発せられるのは不快なので、不快だという表情をぶら下げて寸所のデスクへと向かった。

「はい、なんでしょうか」

「呼ぶのは、これで十六回目なんだけどね、馬野君」

「はい、なんでしょうか」

 細くいやらしい眼が、わたしを爪先からゆっくりじっとりめあげる。

「そんなんじゃあねぇ、困るんだよ、馬野君」

「はい、なんでしょうか」

「はいなんでしょうかじゃないでしょ、はいなんでしょうかじゃ。なんなんだね、さっきから。はいなんでしょうか村から来たのかね君は。はい、質問。いつから君は朝からボーっとしてるだけでお給金いただける仕事に就いたの? うちの業務にないでしょ、朝からボーは。あるの? 朝からボー。おーいっ、みんな訊いてもいいか? うちに、そんな業務はないよな? 朝からボーっとする仕事なんてあるかー? ……ほら、みんな何それって顔してるでしょ。ないんだよ。つまりそれは、君が仕事をしてなかったってことだよ。それになに、さっきから君、こーんこーんって独り言いってたよ。ほかの女子社員から気味が悪いって苦情があったよ。なんだね、狐にでも憑かれてるのかね?」

 わたしは自分のわきに鼻を付けて一気に吸い込み、頷く。

「大丈夫です。狐狸の類に憑依された経験はありますが、その時はもっと体臭が強くなりました」

「コリってなに?」

「狐と狸です」

「ああ、そうですか、たいへん勉強になったよ。でもね、そういう妄想話は近所の子供にしてやってくれるかな。子供なら、きっと好きだと思うよ。だってポケモン大好きでしょ子供は。君はそういう類いの話をしてるんだよね? はい、じゃあ、ポケモンの話はやめて、今から大人の話をしましょう。なに、簡単な話ですよ。これ、昼の会議で必要だから二十部ずつね」

 寸所の手で紙の束がしな垂れて揺れている。

 まさか、コピーをしろというためだけに、その貧乏神の肛門みたいな口で人の名を連呼していたというのか。

 どういうわけか、この男はいつも、この手の単純作業をわたしにばかり命じてくる。コピーこんなことも人に頼まねばならぬほど衰えているのか知らぬが、その辺で安物の香水の匂いを振りまいているアンポンタンどもにでも命じればいいものを、よりにもよってこの《呪い姫》を雑用に走らせるとは──愚かなリ!

 不満や疑問は嘔吐するほどあるが、わたしはこの糞蟷螂に逆らえぬ身であることも自覚している。

 わたしを馬野時子というおもてで呼ぶ人間は、わたしが呪術界のサラブレッド、丑之刻子であることを知らぬ者なのだ。

 この『ホップ・ステップ・ジャパン』とかいう、無意味にポジティブな社名を掲げる会社の一OLとしてわたしを認識している者なのだ。

「おーい、またボーっとしてるんですか? 脳がお留守ですか? そのオツムの中は空っぽですか? 探し物はなんですか? 見つけにくい物ですか? 地球空洞説ですか? おーい」

「はい、すみません」と頭を下げると、寸所は舌打ちを寄越した。

「すみませんじゃすみませんよ。ただでさえ君は陰気臭いのに、勤務態度までそれじゃあ、やる気ないと思われても仕方ないよ? そんなんで、よく何年もうちで続けられましたね。普通なら、あっという間に解雇ですよ。かいこかいこ、おかいこさまだよまったく。おたくだって困るでしょ? 今から職を失ったら。馬野君、今、幾つだっけ?」

「二十八ですが」

「二十八! いい年じゃありませんか、二十八。ぼーっとしてたらすぐ若いのに人生追い越される年ですよ。とくにあなたは頑張らないと馬野君。頑張るって言葉の意味わかりますか? 最近は幽霊だって3Dとかになって頑張ってるのに、君の方がぼーっと霞んでて幽霊みたいだよ」

 彼の口から連射される悪口雑言と臭い唾を浴びながら、そんなにわたしは暗いのだろうかと考えた。

 里芋の皮みたいな寸所の後頭部が映る窓硝子には、わたしの姿が映っている。

 後ろで束ねた腰まである黒髪、白い細面、薄い眉、三白眼、細く尖った鼻、薄く小さい唇。

 確かにけいさいえいせんの幽霊画に似ているが。

 それにしても面だけでなく口も悪い男だな。

 まあよい。好きなだけ嫌味を垂れこぼすがいいさ、糞蟷螂め。わたしには、そんなもの何の効果もないのだから。

 いつでも貴様を呪い殺せると思えば、こんな嫌味などクラシック鑑賞となんら変わらぬ。紅茶を啜って優雅な心持ちで聞いてやる。むしろ、どんどん嫌味を零してほしいものだ。その分、返す時に楽しめるからな。お前は気づいていないのだ。お前が今していることは、花に水を注いでいるようなものだ。わたしの呪い花は、お前のドブ臭い穴から放たれるあっこうによって美しく咲く。

 いいか糞蟷螂。わたしはすぐには返さないから覚悟をしておけよ。わたしは溜め込むタイプなのだ。溜め込んで溜め込んで大きくなった呪いの原石を、憎悪と執念で漆黒の宝石へと磨き上げ、それを笑いながら金槌で叩いて砕くタイプなのだ。

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