翳りの城
一の章 (2)
「策とな……。が、せいぜい三、四百の手兵なるぞ。物見の報せによれば、城兵の姿も見えぬという。あるいは、もぬけの殻というのが奴らの奇策やもしれぬな」
弦馬は、どこかで先刻の不吉な予感をあえて隠しながら、笑った。
「あの南側に見えるのが大手口なのでござりましょうが、馬で蹴上がるには、ややきつうござりまするな」
重太郎は、それに答えずに言った。確かに、その方形状の城壁南面のほぼ中央から、するりと裾を降ろしたように、傾斜の強い一本の斜面が見える。弦馬が、その奇妙な斜面をよく見ようと目を凝らした時、急に風が背後から吹き出し、陣幕をはたはたと煽った。その斜面は、遠目には、しなやかなほど緩やかに見える。
「お主の騎馬衆でも無理と言うか」
「無理とは申しませぬ。ただ……」
「ただ?」
弦馬は、重太郎の横顔を見た。幾多の戦いを共にした、まさに百戦練磨のこの騎馬武者の端正な横顔には、その戦歴を刻むかのように、左の頰から顎にかけて深い槍傷が残っている。その若武者が今、彼方を見やる眼に、弦馬は一瞬冥い翳りを見たような気がした。
「ただ、南斜面の先が読めませぬ。あのようにまっすぐな斜面の先、大手口は大門のみゆえ、門を打ち破れば、いとも容易に城内に突入出来ましょう。拙者にはむしろ、その無防備さが気懸かりなのでござる。正気で寄せ手を迎え撃つつもりがあるのか」
重太郎は、思案するように彼方の城を見つめる。
「あの斜面の先に何があるのか……」
もう一度、そう呟くと、大月重太郎は背後からの残照の影となった顔に、うっすらと不敵な笑みを浮かべた。弦馬はその笑みに、底知れない畏れを感じるのだった。その得体の知れない畏れは、悪寒となってじわりと弦馬の胸の内に拡散してゆく。弦馬は、その悪寒を振り払うように言った。
「重太郎よ。わしは二十数年この方、城攻めを得手としてきた。たいがいの城は、その惣構えを見れば弱味が判る。あの城の弱点は、搦手の石段にある。あれは奴らの逃げ道であろう。既に戦う前から及び腰じゃ。ましてや城方は三、四百。明日の攻めは、槍衆の我攻めで一気に陥とす。騎馬は控えじゃ。敵が討ち出て来ぬ限りはな」
重太郎がそれを遮った。
「拙者にやらせていただきたい。大手門を破っていただければ、拙者の騎馬、四十にて押し入り、一気に蹴散らしましょうぞ」
重太郎の申し出に対し、弦馬は彼方の城を顎で指した。
「重太郎、あの石段を見てのとおりじゃ。城兵どもはあらかじめ逃げ道をあつらえておる。あの臆病さが、今の家康の姿よ。明日は、槍衆の我攻めだけで充分じゃ」
ふたりは、大手口の裏手、城の北面に急角度で下から伸びる奇妙な石段を見やった。それは既に城の輪郭の内に捉えることはできないほど、深い闇の中に沈んではいたが。
「あのような腑抜けた城は初めて見たが、戯れ話の酒肴に我が手で陥としてみるのも面白い。軍議にて申しつけるが、明日は早朝より、大手、搦手双方から一気に攻め立てる。もっとも、物見の報せどおり、城には一兵も居らぬかもしれぬ。まことに、もぬけの殻という奇策であるかもな。然るに、重太郎。お主、明日は控えじゃ」
弦馬は重太郎の暗い顔は見ずに、言った。
周囲に篝火が焚かれ、多数の歩哨兵が影のように佇んでいた。陣内からは、甲斐の祭り歌さえ聞こえる。既に彼の城は抜いたかのような気分が、陣中に漂っていた。それが、今度の武田軍の勢いでもあった。この台地を包み込む宵闇の中、彼方の城は篝火も見せず、ただ鎮まりかえっている。あるいは本当に、その城は空なのではないか。弦馬は心の隅に、一縷の期待を覚えた。
「軍議を始める」
そのような安易な期待感を抱いた己れを恥じるように大声で叫ぶと、弦馬は陣幕の中に消えた。
「夜討に警戒いたせ」
重太郎は、暫くの間その場に佇み、城の溶け込んだ闇の先をなおも見つめていたが、やがて脇の歩哨兵にそう言い残すと踵を返した。
城は、背後の山影に呑み込まれ、漆黒の闇の中に消えていた。
三
十月十五日 卯の刻(午前六時)
未だ明けきらない払暁の草原に、冷気を含んだ一陣の風が吹き渡った。風に押されるように、朝霧がゆっくりと追われてゆく。薄闇の残る鉛色の東の空から徐々に漏れ出す朝日に、一面の枯野が黄金色に染まってゆく。その風の中に、馬のいななきと武器、甲冑の擦れ合う音が重なる。
剣崎弦馬は、軍配を上げた。
既に攻撃態勢を完了し、発動の瞬間を待っていた攻撃部隊が一斉に突撃姿勢に構える。先手、先駆けの南側大手口攻撃隊五百、北側搦手攻撃隊三百、総勢八百の兵が、波のように前進する。と同時に、地鳴りのような喚声が天明山山麓に響き渡り、朝のしじまが打ち破られた。既に城壁直前まで、赤胴備えの弓兵が匍匐で迫っていた。背中の受筒に差し込まれた赤地に白の四割菱の旗指物が、強い朝風にはためく。腹這いの状態で顔を起こした弓兵たちは、揺らめく草の間から、彼らの眼前に迫った異様な箱型の城を上目づかいに見上げた。
高い……。彼らは、遠目には小振りに見えたその城が、今、眼前に異様な高みを持って聳え立つのを見上げ、口には出さないまでも、初めて畏怖と不安を覚えた。昨日、彼らが遠目に見た城壁よりも、遙かに高い。眼前にそそり立つ城壁を見上げながら、弓手長は、固唾を呑んだ。
松明を捧げた種火方が、草叢の中を走る。彼らは腰を屈めながら、弓兵の最前列に点々と据え置かれた種火桶に火を入れる。すかさず、赤く燃え上がった炎に弓兵たちの火矢の先が差し入れられる。次々と松やにの練り込まれた先端の油布玉に点火された火矢は、明けきらない薄闇の中に、ゆるゆると一直線に並ぶ炎の葬列のように揺れた。弓手長の片手が中空を斬るや、第一列に並んだ弓兵たちが立ち上がり、大弓を引き絞る。火矢は高々と天空を仰ぎ、先端に火花を散らす炎が男たちの歪んだ顔を赤暗く照らした。
「撃っ!」
弓手長の鋭い号令が、静寂を引き裂いた。同時に、引き絞られた弦に弾かれた炎の射列は、しゅしゅと風切音を立てながら朝焼けの残る鉛色の空に解き放たれた。時を置かず、第二列が立ち上がるや、炎の矢を放つ。百本以上の火矢が宙を裂き、火の粉が長い尾を引きながら大きく弧を描き、聳え立つ石壁の高みを目指した。
然し、高台の上に垂直にそそり立つ石壁は、弓兵たちの予測以上に高い。石以外の構造物の見えない壁面を越えた炎の帯は半数に過ぎず、多くの矢が石壁に弾き返されて落下した。火矢は更に第三、第四斉射と続いた。が、数多の炎が城壁の内側に吸い込まれていったにも拘わらず、城内から火の手があがる様子はなかった。火矢の斉射が終わると同時に、鉄砲衆が火縄に点火し、城壁の頂に向け、一斉に射撃を開始した。この最新装備の六十挺の武器は、凄まじい炸裂音を早朝の草原に轟かせた。周辺の草叢からは、幾十羽という鳥が鋭い鳴き声をあげながら、一斉に飛び立つ。然し、最新兵器による一斉射撃は、大音響と濛々たる紫煙という威嚇効果を挙げる以外、なんら役には立たなかった。ここでも、彼らが標的とすべき城兵の姿は、ひとりたりとも見出せない。斉射が終わり、草原に奇妙なしじまが戻った時、長身痩軀の鉄砲頭は、なおも城壁の最上段を睨み上げ、唇を嚙んだ。城は未だ、不気味に深い静寂の中に在った。