翳りの城

三吉眞一郎

一の章 (1)


 一の章 弦馬





 元亀三年(一五七二)十月十日 天龍峡青崩峠


「消えた?」

 けんざきげんは、眉をひそめた。

「消えたとは、どういうことか。言っていることがせぬ」

「いや、すなわちその……かつぬま隊の消息が摑めぬのでござります」

 額にあぶらあせを浮かべながら困惑するものがしらの表情に、弦馬は口元に笑みさえ浮かべた。

「神隠しでもあるまいに。あの勝沼げん右衛もん殿が消えたとは、笑止な。勝沼殿は、やまがたまさかげ様の一番騎をも務めた武田屈指のじゃ。然もさいさきとは申せ、五百の兵。既にこの秋葉街道沿いの出城をふたつ三つも喰ろうて進んでおるという。お主、悪い夢でも見たか」

 弦馬は再び笑った、白い歯を見せて。

「いえ、剣崎様。それが誠に不可解なのでござりまする。秋葉峡の先、だいらの付近から、まったく消息が判らぬので。まさかとは存じまするが……最悪の事態も懸念されまする」

「最悪とは、何か?」

 弦馬の顔色が変わる。こめかみに、一気に青筋が浮いた。

「いや、まさかでござりまする。が、……ふた心有りやとも」

「馬鹿も休み休み申せ! あの勝沼源右衛門殿が寝返るか、愚か者め。よいか、勝沼殿はたびいくさでも、かたさまから最先陣を仰せつかっておる猛者じゃ。言うに事欠いて寝返りとは、冗談もいい加減にいたせ!」

 弦馬は腰に差したせんを抜くと、いらたし気に左手のたなごころを打った。

「勝沼殿のことじゃ。おそらく大いに先駆けていえやすが頰かむりしている浜松辺りにまでってしまわれたのじゃろう。御屋形様の本隊は、未だふたまた城にも達しておらぬゆえ、先に浜松を突くは勇み足とは申せ、いずれにせよ家康は浜松に貝の如く籠って、出て来はせぬ。出て来れば、今度こそ命取りじゃ。その風前のともしびである家康に、この武田から寝返る者など居るものか。いま一度、物見を浜松付近までつかわせよ。それと、そのようなれ話、もはや他言無用じゃ」

 弦馬はそう言うと、物見頭を再びよいやみの迫る山道に追い返した。

 武田二千の兵が越えつつある青崩峠は、やがてしつこくの闇に包まれていった。



 甲斐を発した甲州武田軍が信州いいを経て、天龍峡を一気に南下し、北遠江に達したのは、元亀三年十月中旬のことであった。武田信玄率いる本隊二万。を南下したおくかわ方面別動隊が合流すれば、優に二万五千を超える大兵力である。

 この主力部隊の東側面、東遠州方面攻略の命を帯びた別動隊、剣崎弦馬率いる二千の兵が、青崩峠から南東に進路を取り、天明山さんろくに進出したのは、十月十三日。この佐久間平に達するまでに、既にふたつの徳川方のとりでほふっていた。

 天明山山麓の南西面に向かって緩やかにひらけた台地に、剣崎弦馬以下二千の将兵が、その奇妙な城を見たのは、十月十四日夕刻のことだった。

「城からの返答は、何もないとのことにござります」

「降伏勧告の使いは」との弦馬の問いに、若いきんじゆは答えた。

「敵方の数は」

「城の規模から見て、三百。せいぜい四百でござりましょう」

「他愛ない。命を粗末にするものよ。城を開ければ、命は助くるものを」

 弦馬は、誰に言うともなく呟く。

 近習が進言する。

の城、のぼりばたも立てず、人の姿すら無き模様。らつものりましたが、未だ戻りませぬ。徳川の出城なるか、確認が取れておりませぬ」

「既に我ら、徳川方のふたつの砦を平らげてきた。更にこの先、二俣、浜松に至るまで、この辺りにひしめく城も砦もことごとく、徳川方の城以外に誰ぞの城と申すか。家康は我らの侵入に怯え、昨年来ここいら一帯に急ごしらえの出城、砦を見境もなく造ったと聞く。そのぞうぞうの城のひとつにござろう。からじろならば、火を掛けるまで。御屋形様の本隊は、既に二俣城攻略に向かってござる。我らが任務は、この天龍峡から遠州東面にかけて展開する徳川方の城を片っ端から潰すことにある。とにかく手早くここを抜けねば、御屋形様に追い越されるぞ」

 弦馬は、事もなげに言った。

「明朝にも仕掛ける。いくさつけ殿をお呼びいたせ」

 しようから立ち上がりながら、弦馬は周囲を見廻した。

「首尾は」との問いに、近習が答える。

「敵方のづめに対し、警戒線を張り終えました。街道は封鎖いたしてござります」

「城からの討ち出しはまずあるまいが、大手、からめとも厳重に固めよ。抜け道を徹底的にふさげ。水の手を止めよ。付近の沢は、流れを塞げ。陽が落ちる前に動け」

 弦馬は、ばやに指示を出した。城攻めは武田随一と言われる、剣崎弦馬の手際良さだった。

はんとき後に軍議を開く。御屋形様には、明朝より攻略を始めるとの使いを出せ」

 言い終わると、弦馬は陣を出た。晩秋の名残りを漂わせる枯れ野原の彼方、柔らかな残照の中に、薄暗い影のごとく、その城はたたずんでいた。

 小さな城だった。この天龍峡から北遠江一帯にかけて、甲斐武田軍の南下に怯えた徳川家康が、数を頼りに造らせた急ぎしんの城が乱立している。この城も、そのたぐいのひとつなのだろう。乱波者も見落とすほどの、他愛ない城だ。

 だが、それにしても奇妙な城だと、弦馬は思った。通常、彼が戦い慣れてきた城というものは、地形を利用し、幾重にもからぼりくるを組み合わせ、周囲には柵を巡らせ、一兵たりとも寄せつけまいとするかたくなな防御の意志を感じさせるものだ。城の構造、そうがまえを知り尽した弦馬は、遠目に見ただけでもそのような防備を巡らせるおおかたの城の攻略手順は想定できた。

 だが、この城は、どこか違っていた。周囲にまったく配慮せず、ただこつぜんと台地の上にちよりつしているのだ。むしろ無防備に、敵をいざなっているようにすら見える。その形状は、小さな丘の上に石垣をただ垂直に積み上げただけの単純な方形であり、塔の如き異様な高みだけを持つ、なんとも工夫のない姿をさらしているのだった。この台地の東北側には、天明山を南端に、その北側に連なる峰々がある。

「奇妙じゃ。あのようなかたち、これまでに見たこともないわ。なぜこの地形を利用せぬ。この城取りは、何を考えておるのか」

 弦馬は、その疑念を拭えなかった。

「それにしても……」

 弦馬の脳裏に、青崩峠での物見頭の報せがよぎった。

「勝沼源右衛門殿は、この城を見落としたか?」

 源右衛門率いる先遣隊は、確かにこの街道を下っている。浜松に抜ける道は、この付近ではこの秋葉街道以外に存在しない。

「勝沼殿ほどの猛者が、何故攻撃を仕掛けなかったのか。あるいは、無視するに等しい城なのか。少なくとも、気づかぬ筈はない」

 影のように佇立するその城を見据えるうち、何か得体の知れない胸騒ぎがかすめた。その不吉な感覚を、弦馬は無理矢理にも脳裏から振り払うのだった。


「奇妙な城にござりまするな」

 不意に横から声がした。騎馬主将、おおつきじゆうろうだった。低い陽を受けて、褐色のくさむらに薄く長く、ふたつの影が伸びる。見はるかす先には、かすかな西陽に照らし出された丘の上に、ぽつりととげのような小城が在った。

「実に変わった形をしておりまする」

 重太郎は、弦馬の横に並びながら、遠く佇む奇妙な城を見やった。

「石積みも、わが武田の城とはだいぶ要領が違うておる。ほんやぐらはもちろん、すみやぐらすら見えぬ。相当に変わり者の城取り方に造らせたか、もしくはきんが工面できなかったか」

 弦馬が、軽蔑するかのように言った。

「あるいは、余程の奇策があるのやも」

 重太郎は、遠くを見やりながら呟いた。

「奇策?」

 弦馬は、思わず顔を向ける。

「相手が我ら武田騎馬衆ともあれば、おそれもありましょうから、何かしらの策を講ずることは充分考えられまする」

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